第64話 6-6 犠牲者

文字数 1,884文字

「同僚が、製造課のハインツ・ランゲを見ませんでしたか?」
「動力棟に向かうのを何人も目撃している」
 防空壕へ向かう際、ハインツが外を走るのを見て制止しようと後を追った。
 曖昧に返す警備員が向く先が答えを示す。それは今迄と似ても似つかぬ風景。
「動力棟に爆弾は落ちていないから、停電で故障した汽缶が爆発したと思う」
 目を凝らすと動力棟の惨状が分かった。
 歪んだ鉄骨の骨組みだけ残る建屋跡。屋内だった場所は砕けた瓦礫で埋められ、捻じ曲がったり、折れたり、千切れたり、冬枯れの(あし)の茎を思わせるパイプの束から漂う蒸気が示す汽缶の名残の向こうに、壁で見えなかった景色が初めて見える。
 あの中にいて爆発に巻き込まれたなら、無傷では済まないのは容易に想像出来た。
「ランゲさんだね、探しておくよ。他にも行方不明が大勢出ている様だ」
 自分が望んだ工場の停止、動力源の破壊は為された。犠牲の事など思慮が及ばぬまま、あろう事かハインツを巻き込んだかも知れない。
 目の前が真っ白になると意識が飛び掛け、脚の力が抜けて崩れそうになる。
「大切な、大切な  仲間なのです」
『ユダヤ人であると誰にも絶対に言わないで頂きます。オストランド出身と言うのです』
 婚約者とも恋人とも言えなかった。ユダヤ人だと暴かれたら交際相手のハインツも捕まってしまうから言えなかった。
 項垂(うなだ)れ視線を背ければ、血を吸って黒く変色した窪地の染みが一層大きくなっていた。
「私を庇った警備員さんは大丈夫でしたか」
 ステラの名を知る警備員の怪我の具合を尋ねたが、誰一人として何も語らず、目に涙を滲ませ、首を横に振る。視界の隅に姿を消そうとしている何かを載せた荷車が見えた。
「ここにいた警備員さんにせめてお礼だけでも。あの荷車にいらっしゃるのですか」
「彼なら心配しないで良い」
「後で彼に伝えておく」
「君が無事だと知れば彼は喜ぶよ」
 察したハナはそれ以上聞けなかった。

 全身至る所の鈍く重い痛みが続き、無事ではないと知って暫く体を休めていたハナだったが、存在を知った遺体安置所を訪ねた。入口の係員が言うには、ここはドイツ人従業員だけで、爆撃で破壊された二つの工場から運び出された戦争捕虜と東方労働者は敷地の隅に山積みだと言う。
 場内に次々と運び込まれる遺体はシーツで覆われ、あるものは二つ折りのシーツの下半分に置かれ、上半分で覆われる。
「工場にいた女子寮生達は無事でしたか?」
「婦人用防空壕に直撃が  二十人近く  何ひとつ見付かっていない」
 力を失ったハナはその場に尻餅をついた。
 ハインツを追い掛けた事で難を逃れたと知ったハナが係員に手を引かれ力なく立ち上がれば、大柄な姿を示す亡骸を見付け、ステラの名を知る警備員だと思い傍に寄る。
「この方は、私を庇って下さった方ですか」
 畑で会った警備員が首肯すると、彼の名はハンス・マグフリートと教えてくれた。
「余りにも傷が酷いから、姿を確かめるのは止めなさい」
 真顔で忠告されたが、命懸けで守ってくれた方に礼を捧げないなどあるまじきと、覚悟を決めてシーツを捲った。
 辛うじて悲鳴は押し留めたハナだったが、決意を揺るがす酷く傷んだ遺体を目の当たりに、背けた両目から涙が流れ始めた。
 防空壕で皆と一緒に微塵と砕けて形すら残らなかった、或いはこの方と同じ傷を負い死んだかも知れない。ステラの名を知るこの人はシュルツ家の関係者だろう。
 思い巡らせると自然と言葉が口を衝いて出る。
「助けてくれてありがとう」
 血塗れの大きな手を両手で包んで告げれば部屋中に響く大声で泣いた。
 肺が傷付いていたのか、(むせ)て鮮血を吐いても泣き続けた。
「マグフリートさん、心から感謝します」

 行方不明者の捜索と瓦礫の片付けは日没と共に終わった。工場の外れにある半壊状態の屋外トイレで排尿する際、生理でもないのに腹部が重く、ドロワーズが暗血色に染まっていたのを見たハナは、呼吸器と消化器が損傷を受け出血していると自覚したが、何もする気が起きないまま倉庫に体を横たえた。
 昨日の今頃は、同僚達からハインツとの関係を探られて盛り上がっていた。皆に見せびらかしていた左薬指の指輪を見詰めれば視界が涙で歪む。
 純朴な同僚達も、頼もしい寮長も、体を張って守ってくれた警備員も、自分と係わった者が軒並み亡くなり、ハインツは行方不明。

 私だけ生き残って良いのだろうか。私は関わる者を不幸にする死に神ではなかろうか。
 もしそうなら、せめてステラとそのご家族に及ばない様にしないと。

 月明かりが照らす壊れ掛けの倉庫に泣き声を満たしてハナは夜を過ごした。
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