第60話 6-2 嘆願

文字数 1,378文字

 十二月下旬。収容所から生還して一か月後。
 ハナは工場の親会社でもあるヴィルヘルムの勤務先、フランクフルト・アム・マインへ向かっている。路線が寸断されているので困難が伴うが、何としても恩人に感謝を告げようと決めて鉄道に揺られている。
「ハナ!」
 燈火を失い月明かりに照らされる無彩色の街並みを眺めていれば、ステラの柔らかい声が響いて俄かに街が色付く。振り返れば体当たりと抱擁が同時に訪れ、抱き付かれた胸回りに力が籠められ息が詰まる。
「ばか! ばか、ばか、ばか!」
 繰り返すステラの涙声が途切れても、ハナは華奢な拳が胸板を叩くに任せている。
「小父様!」
 優しく叩き続ける両手を包んでから離れたハナは、左脚を引き摺りステラの父ヴィルヘルムへ寄るが、胸が詰まって出て来ない言葉の代わりに抱擁で感謝を表す。
 ヴィルヘルムが肩を抱き労われば、こみ上げるハナは涙を迸らせる。

「優遇したつもりだったが、要らぬ横槍が入り危ない目に遭わせて済まなかった」
「彼氏さんからの手紙が遅れたら、手遅れだったかも知れないのよ」
「かっ 彼氏だなんて」
「あらぁ」
「おぉ」
 飲酒などしていないのにハナの頬から耳が色付くと、父娘の声量もトーンも跳ね上がった。
 格式あるホテルのレストランながら、アイントプフとライ麦パンと代用コーヒーの夕食を終えた三人は一室に集い、ヴィルヘルムが今迄裏で手を回していた計略を、時間を掛け全て丁寧に明かした。
 それら端緒の殆どはステラの願いによるものであったが、そこまで考えてくれたのかと感謝が込み上げたハナは、お願いがありますと切り出す。
「納入している燻蒸殺虫剤は強制収容所の囚人を殺す為に使われています」
 張り詰めた空気は続く言葉で剣呑(けんのん)になる。
「収容所を爆破出来ませんか。製造工場を壊して、少しでも犠牲者を減らせませんか」
 部屋の空気が一気に冷え固まり重さを増した。正気を疑われる発言を叱責(しっせき)され、嘲笑されるだろうと身構えるハナを向いたヴィルヘルムは、にこやかな表情でハナとステラに言う。
「収容所の破壊は難題だが、デッサウの工場に爆弾が落ちれば供給は止まるのだがなぁ」
「ははははは!」
「まさか、そんな、どうやって」
 冗談と取り大笑いするステラの隣で真に受けたハナはヴィルヘルムに尋ねる。
 国内外に数か所ある燻蒸殺虫剤の生産工場は空襲で様々に被害を受け、正常稼働しているのはハナの勤めるデッサウだけと言う。
「軍需工場が数々ある地域なので、デッサウの工場もいつ爆撃されてもおかしくない」
 確かにそうだと思ったハナだが、相手が恩人でも考えが読み切れずに困惑している。
 笑顔を消したヴィルヘルムは、燻蒸殺虫剤の悪用は薄々勘付いていたと言う。
「親衛隊全国指導者友の会の会合でユダヤ人の再定住を推進すると聞かされ、マダガスカル島かスラヴ語圏へ移住させるのかと勘繰ったが、漸く全体像が把握出来たよ」
 無言の二人から見詰められると続ける。
「再定住。それは、天国へ送ることの様だ」
「収容所で聞かされたのと同じです」
 ヴィルヘルムの発言に食い付いたハナは、不当に死の危機に晒される同胞を救い護りたい、米英に情報提供して収容所を爆撃させる事は出来ないかと尋ねる。
 ヴィルヘルムの首は横に振られた。

【文中補足】
アイントプフ 煮込み料理のこと 食材が乏しい戦時中は節約料理として推奨された
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