第54話 5-5 アウシュビッツ二号 ビルケナウ収容所

文字数 2,362文字

「風向きで悪臭が流れ込みます。森の向こうにある屠畜場の不始末にも困ったものです」
「本当、そうですね」
 車から降りて空気を吸った途端、未経験の暴力的な悪臭に見舞われ、内臓全てを口から吐き出せと体が反応する。傍らで平然と説明を続ける親衛隊員にハナは尋ねたかった。
 貴方の嗅覚は壊れていませんか?

 一九四三年十月初旬。
 着臭刺激剤を限界まで削減させた負い目もあるのだろう、納入先の商社から取り扱い事故防止を徹底させる安全指導を行って欲しいと依頼があり、ハナとランゲが現地に出向いた。
「一九四一年十月に建設が始まり、今年春に完成したこの施設は、アウシュビッツ二号ビルケナウ収容所と呼ばれ、建物は三百棟以上、我が国の収容所で最も大きく、施設も充実しています」
「近くのモノヴィツェ村にある、最新の工場を備えた、アウシュビッツ三号モノヴィツェ収容所もまた素晴らしい施設です」
 自慢気に説明されても、鼻腔が腐りそうな臭気で印象は最悪だ。
「ご指導頂く倉庫はもう暫く先です」
 現場まで歩きながら見渡す建物の窓は全て閉じられて中は見えない。砂利敷きの道は所により地盤が緩いのか、踏み付けると表面まで水が滲み出てくる。両の側溝には生臭く赤黒い排水が流れ続けている。
「建設直前まで一帯に病死した家畜を埋めていたそうで、臭いと共に上がってきます」
「ソワ川とビスワ川が合流するこの付近は、以前は湿地帯で、雨が少しでも降れば暫くの間何故か屠畜場の排水が流れ込んで来ます」
 ハナの視線が捉える疑問を先回りして口にさせない親衛隊員の説明が続く。
「家畜の血で赤く染まって衛生上も宜しくないので改善を申し入れていますが、国民への食肉の提供が優先されるから我慢しろと上から言われて、ほとほと困っています」
 親衛隊員は眉間に皺を寄せて露骨な困惑の表情で肩を竦める。
「あらっ、音楽が聞こえますね」
「あれは収容者向けの娯楽として、有志が各棟を巡回しているのです」
 囚人服を着たまま楽器を演奏する陽気な一団が通路の両側に並んで迎える。
 和やかな笑顔の演者達から感じ取ったのは違和感。
 演奏が下手だからではなく、奏者全員が痩せ細り、顔色の悪い笑顔が引き攣っている。
 指揮をするでもない見張りと思われる親衛隊員が張り付いているのも気味悪い。
 微笑んで通り過ぎ、暫くすると演奏が遠ざかって途切れた。振り向くと誰もいない。
「次の歓迎演奏に備えて降車場に移動しました。案外と忙しいのです」
 収容所に送られてくる者への『歓迎』演奏が『忙しい』とは、数多くのユダヤ人達が送られて来る事。この隊員は油断して口を滑らせたかも知れないと気付くが、そうですか、と告げた以外に何も反応せずにいた。

「この製品の特長から説明します」
 二十人ほど集まっていた親衛隊員にランゲが指導を始める。ハナが見渡せば、唯突っ立って聞いている者もいれば、手にした手帳に書いている熱心な者もいる。
「質問、宜しいでしょうか」
「はい、どうぞ」
 区切りが付いた頃合いで質問が始まった。
「充満している中にガスマスクなしで入ったら、どの程度の時間耐えられますか」
「主成分は青酸ガスなので、標準濃度の場合は一呼吸で全身の機能が麻痺し、五分も掛からず呼吸と心拍が停止します。全ての作業の際に必ずガスマスクと全身防護服を正しく装着することが重要です」
「一キログラムを零したら何人死にますか」
「一般的な天井高の密室だったら、だいたい二百から二百五十人の致死量でしょうか」
「解毒剤はありますか」
「大学や研究所にあるとしても、体内に取り込まれてすぐに血管へ注射する必要があるので、まず間に合わず死亡します」
 質問を不審がられない為か、リーダー格の親衛隊員が割り込むと参加者に命じる。
「諸君! 技術指導者殿が仰る通りに、完全防備で御指示通りに取り扱え。我が身の安全は人任せにせず臨むことだ。良いか!」
「了解しました、軍曹殿!」
 ランゲの遣り取りを見ているハナは、誰かが自分を盗み見ていると気付いていた。
 男性だけの職場に現れた女性の珍しさや、性的な興味からとは違う気がする。
 視線の方向に自然な仕草で上体を向けたハナは相手を特定したが、その者に見覚えはない。
 顎に大きな傷跡があるその男とは、その後も何度か視線が交差したが、関係ありませんと言わんばかりに遣り過ごし続けていたが、上官から彼へ声が飛んだ。
「ダルポン・アマレキタール・ハンメダシャ上等兵。君の班は毎日取り扱うのだ。理解出来たか」
「理解しております! 軍曹殿!」
 倉庫での模擬実技指導が終わると、右腕を斜め上に突き出す敬礼で見送られ隊舎へと戻る。
 来た時には気付かなかったが、大きな建物の煙突から黒い煙が立ち上っている。
「あれは、夕方からのシャワー用に汽缶(きかん)で湯を沸かしています」
「随分と黒い煙で妙な臭いもしますね。何を燃やしているのですか」
「はっはっは!」
 親衛隊員が突如大声で笑った。びくっとしたハナが呆気にとられていると、皆さんお尋ねになります、と言葉を継いで説明する。
「薪を焚き付けに、使い終わった襤褸布へ廃棄油を混ぜて燃やします。使えずに捨てる物を活用しているのです。酷い臭いでしょう」
 親衛隊員がハナを向くと、厳つい制服に似合わぬ柔らかな笑顔で告げる。
「ここで見聞きされた涙ぐましい内情は、笑われますので口外無用でお願いしますね」
 頷く笑顔の裏でハナは疑う。
 ラードやヘットでの調理や、使い古した食用油をランプで燃やした事もあれば、屋外で廃エンジンオイルを燃やして暖を取る輪に入った事もある。
 いずれにも似ていない未体験の臭い、本能が拒絶を示す臭いの正体が分からず気味が悪い。

【文中補足】
汽缶 ボイラー 当時の工場の動力源、暖房供給の為、高温の蒸気を供給する大型の湯沸かし器
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