第34話 3-11 仕組まれた暗殺

文字数 1,690文字

 翌十一月九日。
 ステラの軽薄な祈りなど届かなかった。
 駅前から見渡す光景は黒が支配し、足元だけ煌めく異様な光景だった。
 燃え残った建物跡は焦げた臭気を放ち、歩道の端に寄せられたガラス片が陽の光を散らし煌めく。燃えずに残った商店は、ショーウインドのガラスも、展示品も、商品もなく、什器備品は床に投げ捨てられ、まるで竜巻に直撃された様相を呈している。
 ユダヤ教の講堂シナゴーグは焼け落ち、柱の付け根と腰壁と石造りの基礎の残った箇所に黄色のペンキで書かれた侮蔑の文字が目立つ。
 足裏に硬い感触が、耳にはじゃりっ、と異音が届いた。街灯に手を添え、確かめた靴底にはガラス片が食い込んでいた。踏まぬ様に足元を確かめながら訪ねた行きつけの食料品店は焼け落ちて、金属の看板以外跡形もなくなっていた。
 出立したカールスルーエと到着したハイデルベルクのいずれでも、約百二十年前のヘップヘップ暴動に倣い事態を収束させようとした者などは現れず、殆どの民衆は受動的な傍観者のままだった様だ。
 帰路注意する様にとアコニテンへ申し付けたマードニオスが、昨夜偵察に出た所感をステラへ告げた。
「砕け散ったガラスが放火の炎と月光で照らされ煌めいていました。見た目は水晶のようで奇麗でしたが、あれほど醜悪な光景は見たくないものです」

 ユダヤ人ハーシェとドイツ国大使館員エルマーの痴情の縺れと思われる銃撃事件。
『これを利用されるかも知れませんね』
『プロパガンダとして十分使えます。酷い事にならなければ良いのですが』
 起きてしまった事件はアコニテンの見込み通りとなった。
 大使館が報道発表した初回以降、国民啓蒙・宣伝省が介入して事実を捻じ曲げ、政府に有利な偏向した報道で民衆を煽り立てるプロパガンダとして利用されてここまで酷くなったのだとスクゥトムは言った。
 パリでの事件を、ハーシェの凶行を、何としてでも止めるべきだったのだろうか。
 力が及ばない今となっては、せめて被害者の傷が癒え、加害者は公正な裁きの元、贖って欲しいと願うしかなかった。
 当事者意識が希薄なままのステラの願いなど嘲笑うかの様に、ドイツ政府の謀略は深く静かに進行していた。

 十一月九日午後四時。
 パリ七区にあるアルマ病院の特別室にやって来たドイツ大使館員を名乗る男が一枚の書類を差し出した。
 総統の侍医兼親衛隊少佐、カール・ブラント博士は読み終えるとその男に返し、同じく付き添っていたゲオルク・マグヌス国防軍顧問外科医へ、一緒に大使館へ向かい、ラッツェル一等参事官の容態が悪化しつつあり、最善は尽くされているが、最悪の事も想定されたい旨、総統への機密報告を依頼した。
 病院の医師も看護婦も部屋を外すと窓を開け、上着を脱いだブラント博士はバッグから取り出した聴診器を尤もらしく首に掛け、ラッツェルの病衣の胸周りを開ける。
 僅かに血を吸っているガーゼを剥がし、胸骨付近の傷口を露にすると、取り出した注射器ケースの蓋を開け長い注射針の注射器を取り出すと、褐色掛かった桃色のアンプルの首全周にカッターで傷を入れて折り、溶液を吸い込む。
 縫合されたがまだ癒着していない銃創の射入口から注射針を斜め上目掛けて刺し、胸骨を避けて針を深く押し込むと心臓内へ溶液を流し込む。
 針を抜き注射器と共にケースに戻し、フェノール溶液のアンプルも回収してバッグへ納めた。
 傷口のガーゼを戻し、病衣と毛布を戻すとラッツェルの全身に痙攣症状が現れた。ブラント博士は聴診器を仕舞い、手にした上着で扇いで部屋の空気を入れ替えると袖を通し、冷酷な笑みを浮かべながら大声で叫び、心臓マッサージの

を始める。
「大変だ! 誰か! すぐ来てくれ!」

 ハイデルベルクの借家にアコニテンと戻った十一月九日の夜。
 ラジオが流す軽妙な音楽が突如中断されると、重々しい雰囲気の背景音楽に変わった。
「臨時ニュースをお伝えします。七日パリでユダヤ人に襲撃された在フランスドイツ国大使館エルマー・フォム・ラッツェル一等参事官は、手術と治療の甲斐なく、本日午後四時三十分亡くなりました。誠に哀悼の極みであります」
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