第18話 2-5 失意の帰国

文字数 1,475文字

 一九三八年一月。
 周囲に視線を配り、物陰に立ち止まり、ポケットから取り出したメモと街頭の住所表示を照らし合わせる。エルマー・フォム・ラッツェルはドイツの首都ベルリンの街中を歩いている。
 一九三七年秋。着任約半年で夢の終わりがやって来た。
 下腹部の鈍痛が常時現れ、肛門から血液の混じった黄みがかる分泌物が漏れ出す。尻にタオルを宛がって凌いでいた頃、エルマーだけが健康診断と称した問診と、肛門周りの触診を含む検診を受けた。それからの数日は上長の個室に呼ばれての尋問紛いの聴取が続いた。怯えて過ごした数日後、総領事から呼ばれ、帰国辞令が告げられた。
「赴任地で風土病に(かか)り、治療の為帰国する外務職員は多い。気にする事はない、本国でしっかり療養を行う様に」
 本音を探ろうと向けた視線の先の総領事は柔和な表情のままだ。
「お言葉ですが、私は病に罹るなど」
「ライヒの官吏が

を患うなど以ての外だ。総統の耳に入れば刑法百七十五条に則った処断を下されるだろう」
 険しい表情と視線に一変し、刑法犯の公務員任用資格剥奪を暗示してエルマーの反駁(はんぱく)を封じ込めた総領事。尚も不満を抱えていると見抜いたか、更なる一言で封じ込めた。
「これは私からの最後の恩情と思い給え。これ以上は言わせないでくれ」

 沈鬱な船旅を経て外務省へ帰国報告に向かうと、保健部門の係員から最先端と言われる医療X線研究機関での検査が指定された。訪れると何度も体勢を変えて腰から腹部の撮影が行われ、問診と触診も行われた。
 翌日再訪すると、検査結果と所見書の控を外務省保健部門へ送ったと知った。
 省内に症状が知れ渡る懸念から何とか逃れようと眩暈を堪えたエルマーは、受診可能な医院を示すメモを差し出す職員に尋ねた。
「この中でユダヤ人医師はおられますか?」

 シャルロッテンブルク行政区ウーラント通りに入ると人通りが減り、閑散としてきた。それ程歩かずに訪れたのは、皮膚科・性病科を標榜するマルティヌス・ギュンター医学博士の医院。
「検査の所見と治療指示書には、肛門性交による直腸淋病の疑いとあります。思い当たる行為はありましたか?」
 ドイツ人医師なら法令に忠実にありのままの診断結果を提出され、懲戒処分と逮捕に至る恐れがある。それを避ける為止む無くユダヤ人医師を選んだが、原因まで偽れば完治せずに復職が遠のく。躊躇いに許される時間を過ぎても言葉を発せず、考えを巡らせ続けていた。
「どうかしましたか  えっ?」
 涙を湛えるエルマーの瞳を見たギュンター医師は驚きの余り問い掛けを忘れる。
「赴任先で賊に襲われ肛門性交されました。拒めば殺すぞと刃物を突き付けられて! ライヒの男として不甲斐ないと非難されると分かっていたので誰にも言えませんでした!」
「そうですか。  お気の毒な事でした」
 演技が通じたと見るや、エルマーは更なる演技で事実の隠蔽を求める懇願を続けた。
「分かりました。貴方の将来の為です、治療報告書には雑菌による直腸炎としましょう」
 乾坤一擲(けんこんいってき)、迫真の演技が望みを繋いだ。安堵したエルマーは、治療方針の説明を聞く。
 薬液で直腸を洗浄する。その後二日に一度一か月間、軟膏を注入して炎症を抑える。使用する薬はユダヤ人経営の製薬工場が製造する合成抗菌剤プロタルゴル。銀タンパク質製剤が粘膜を保護。血管収縮を促進し炎症反応を抑制する。その他の薬剤による治療法はなく、他の症例からも完治が望める。
 医学と薬の知識に乏しいエルマーだが、ユダヤ人の工場製は(しゃく)で仕方ないものの、最後の一言『完治が望める』には抗えなかった。
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