第32話 3-9 離脱

文字数 2,095文字

「手摺に掴まって。ステップを踏み外さないで下さいね」
「えっ?」
 客車の乗降口の前に立つ自分に気付いたステラが周囲を確かめれば、デッキから手を差し伸べるアコニテンと、荷物を手に背後を守るマグフリートがいる。
 確か午前十時頃だったのに、大使館の近くにいた筈なのに、夜の駅にいるのが不思議で仕方ないまま、周りを見渡すと乗り込む。
 シルエットの樹々が流れ去り、人の営みを照らす灯りが疎らに遠ざかる。パリ東駅を発車した列車に揺られながら焦点の合わぬ眼差しを車窓の外へ向けている。
「えっ? 何か言った?」
「遅い夕食です」
 肩の辺りをとんとんと叩いたアコニテンがバゲットサンドを、マグフリートが飲み物を差し出している。手渡されたカップを口にすれば唇から喉へ、胃へと伝わり下る冷めた紅茶の後味は渋いが、目を覚ましてくれる。
 標高と引き換えに速度を譲った列車は山肌をなぞり蛇行すると、長い汽笛吹鳴の後トンネルの闇に包まれた。機関車の駆動音と車輪がレールの継ぎ目を打つ音が車内に響く。
 曇った窓を指の背で拭えば疲れて精気のない婦人が映る。それは自分だと分かると溜息一つ、小さな伸びと共に座席へ座り直した。
「振り回されて、疲れちゃったわね」
「大丈夫ですか? 酷かったですよ」
 家へ帰らないと、と口走り、リル通りを大学時代の貸間へと向かうステラの手を引いたアコニテンは、現場から離れようとロワイヤル橋でセーヌ川の対岸へ渡り、ルーブル美術館駅からメトロに乗ると、荷物を預けていたホテルのロビーで静かにさせていたと言う。
 全く記憶のないそれらからこの列車に乗るまで、アコニテンとマグフリートは片時も離れなかったと言う。

『ドイツ国外交官、銃撃される!』
 アコニテンが差し出す夕刊と号外には大きな文字の見出しが躍る。襲撃の経過と、犯人は国外へ追放されたポーランド系ユダヤ人を代表して復讐した、との大使館発表が報じられている。
「あの手紙に踊らされて、巻き込まれたね」
「この事件は、相手が相手だけに」
 ステラの独り言に取り合わず、現実の事件について小声で切り出したアコニテンが言い淀むので、尋ねればさらに小声で告げる。
「ドイツ人公務員が、刑法百七十五条が禁ずる同性愛者で、その相手があろうことかユダヤ人であった不都合は当然伏せて、この事件を謀略に利用するかも知れませんね」
「これを何かに使おうとするの?」
「ユダヤ人迫害の絶好の宣伝材料として使えます。酷い事にならなければ良いのですが」
 
 十一月八日。午前二時過ぎ。
「ユダヤ人がいたら手を挙げろ!」
 マグフリートが大きな身を縮めている。アコニテンの懸念は早くも現実となった。
 国境を超え、ドイツ国内最初の駅ケールで四人寝台個室車両に姿を現したゲスターポ。
 ステラ、アコニテンと確認が終わるとマグフリートのパスポートを改め始めた。
「お前は、ユダヤ人か?」
 沈黙を肯定と捉えたゲスターポは、マグフリートに難癖を付け始める。
「ユダヤ野郎は手を挙げろと行っただろう」
「パスポートにJの刻印がないぞ。これは無効で入国出来ないな」
「十月五日に発効した条例の事ですよね。帰国次第すぐに手続きする予定です」
 アコニテンの取りなしなど意に介さず、罵声が飛ぶ。
「パリで何をしやがったか知っているか?」
「人殺しのユダヤ人って本当だったんだな、お前が犯人じゃないのか? 降りろ」
 無抵抗のマグフリートの襟を掴み立たせると顔も触れんばかりに引き寄せる黒い制服。
 間に入るアコニテンが押し出されよろめく。
「その手を放しなさい!」
 眉と眦を吊り上げ、顔を赤く染めたステラが裂帛の大声を放った。
「何だと? お前はドイツ人でありながらユダヤ野郎を庇おうって言うのか?」
「私達と同じドイツ国民の彼に、何て失礼な振舞いをするのですか」
『大切な使用人を守るのも雇い主の務め』
 父が常々口にする考えに自身も忠実であろう。そして何より人間として正しくあろうとするステラは不条理に立ち向かった。
「何だとぉ? 人殺しのユダヤ野郎はなぁ」
「黙れ! 無礼者!」
 一喝したステラはバッグから取り出した手帳を開きゲスターポに突き出す。鉤十字を掴むライヒスアドラーの国章が金色刻印された手帳。それは親衛隊名誉指導者証の写し。
 こんな汚らわしいものは使いたくなかったが、相手は個人を強制収容所に送る権限を与えられたゲスターポだ。狂犬どもを早く追い払うべく止むを得ず振り出した。
 ヒムラーの直筆サインを見た事がないのか疑いながら、渋々と失礼しましたと告げ、パスポートにチェック済みのサインを行ったゲスターポは敬礼すると次のコンパートメントへ移った。
 
 レールの継ぎ目を打つ音の間隔が早さを増すと一定になった。
「お嬢様、助けて頂いて有難う御座います。何とお礼をすれば良いやら」
「あんな物振り翳して済まなかったわね。でも、馬糞にも劣るもので奴らが引き下がったから愉快だった」
 静まった車内でひたすらに感謝を述べるマグフリートを宥めつつ、午前四時四〇分にカールスルーエ駅で下車すると、ハナの故郷ウィーンにも達するオリエント急行をホームで見送った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み