第82話 8-8 誰が王妃を聖絶したか

文字数 1,537文字

「書き物は仕上がりましたか」
「聖絶するの」
「ちょっと良いですか?  熱はないですね」
 額に(かざ)す手を払わぬまま、この人は言う。
「近い内に全て劫火に()べて滅ぼすの」
「カールスルーエの街ごと燃やして滅ぼしたら駄目ですからね」
 けらけらと笑うこの人は大切なライフワークだと言っていた。
それを全て消してしまうと言う。
「お嬢様、お薬にします? 病院で頭の中診て貰います? それとも、棺桶?」
「あの世が近いもの同士、年々どぎつくなるわねぇ」

『現代でも祭礼が受け継がれ崇拝されるエステルの生まれ変わりが本当なら、ユダヤ人を数多く救えた筈。それなのに、私は何も出来ずに数百万もの犠牲を止められなかった。
 優柔不断で駄目な私(ごと)きがエステルの生まれ変わりとして名を(けが)してはならないから、彼女は現代に蘇っていない事にする』
 いつだったか自らを総括すると、続く言葉は自嘲になった。
『世間知らずの馬鹿な我儘娘(わがままむすめ)が、ドイツとフランスを駆け回って迷惑と災いを撒き散らした。それだけの事だったのよ』
 ああ、矢張りそうだったか。
 当主であった亡き兄が匿名の手紙で行動せよと(そそのか)したにも拘わらず、この人は自身を責めて自己否定していた。
 後悔しているかと尋ねれば首肯して言う。
「一九二二年にカール・バルタザール・ヴァルター・ヘールトを探し出して、燻蒸殺虫剤の開発前に暗殺すれば良かった。そうすればユダヤ人は犠牲にならなかった」
 それは不可能と告げれば、問われた。
 狂った政府は別の方法で殺戮を続けただろうし、お嬢様十二歳、私十六歳なので出会っておらず、女子供には不可能ですねと告げた。
「あぁ、そうよね。それは無理だったわね」
 本当に気付いていなかったのか、この人は揺れる書斎のカーテンを背景に頬杖を突いたまま、背丈ほどに刈り込まれたミュルテの生垣を窓から眺め続ける静止画になった。
「あら、お嬢様は体外離脱しましたかね?」
「どうしても私を先に召天させたい様ね」
 この人の都合の良い耳は状況によって遠くなったり、小声を確実に聞き取ったりする。

『王は命じた。全て焼け。灰を大地に撒け。全て壊せ。粉にして川に撒け』
 この人は何度も自分に言い聞かせながら書斎と書庫からペルシア帝国王妃エステルに関する原稿と資料、出土品とその写真も全て集めて焼却炉で灰にすると農園に撒き、エステルが史実に何ひとつ残っていない真相が刻まれた粘土板を粉になるまで金槌(かなづち)で砕き、荘園を流れる小川に少しずつ撒いて流し去った。
 パンパンと叩いて埃を落とした手を、いててて、と伸ばした腰に添えている。
「これで悪阻(つわり)に襲われずに済みますね」
「あれは歴史が改変させまいと邪魔したの」
 パリのフランス大使館前で見舞われた程酷くないが体調が優れなくなる。経験ないけど産みの苦しみの前段階だから悪阻に例えた。
 そう言っては、頭痛に効くハーブティか鎮痛解熱剤を服用し、深呼吸を繰り返しながら原稿を書き綴っていたのに。
「研究から得た全ての記憶は誰にも明かさない。私の命が(つい)えて聖絶される」
 小川から目を上げ広大な荘園を見渡すこの人が、結婚せず子を儲けなかった理由を独り語りした。史実なきペルシア帝国王妃の真実は、この人と、概要だけ知る私の命が潰える事で、この世から知る者がいなくなる。

 その時、全てが消し去られる『聖絶』が完成する。

 手を繋いでゆっくりと離れへ戻りながら、大きく息を吐いたこの人は何か呟いた。
「今何か言いましたか?」
 中東の強い日差しでのフィールドワークを重ね、柔らかく上質に(なめ)された鹿革にも思える肌の口角を上げ、目尻に笑い皺を刻むと首を横に振るだけ。
 でも、確かに呟いていて、私の耳にはこう聞こえた。
「さようなら、太古の私。さようなら、ペルシアのお妃様」

 完
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