第52話 5-3 死亡事故

文字数 1,374文字

「要求価格が随分と厳しいのね」
 親衛隊が商社と共に工場に来て、上役達の前で、価格低減はライヒへの貢献だと演説が始まったそうだ。納品先の商社の意向もあり、従わざるを得ない二人は新製品開発を劣後に、既存品の増産を優先させる事となった。
 一九四三年八月三十一日深夜。
 何度目か忘れた気味悪いサイレンの吹鳴で目が覚め、或いは叩き起こされた寮生全員が頻繁になった防空訓練の通り、寝間着のままヘルメットを被り防空壕に逃げ込む。
「キャー!」「総統、奴らを追い払って!」「怖いよー!」「お母さーん!」
 遠くが襲われていた今迄と異なり、地響きと共にヘルメットをパラパラと叩いて土が落ちてくる。現実に危険が迫っていると感じさせる今夜の空襲は、寮長以外口々に悲鳴を叫ばせたが、幸運にもハナ達の工場は被害がなく、その後暫くはサイレン吹鳴もなかった。

 増産対応として昼夜二交代操業となった工場で、遂に恐れていた事故が発生した。
 突発の停電で工場内全ての電源が失われ、第二工場の充填機器でキャニスターを外れた薬剤が周囲に散乱し、薬効成分が工場内に漏洩、作業者が避難する騒ぎとなった。
 研究棟の照明が消え、騒ぎを聞き付けたハナは工場へ向かう。作業者の避難で犇めき合う場内へ進もうとした瞬間、ハインツに抱き上げられたハナは、驚きの悲鳴も構わず屋外に運ばれ、工場の風上へと下ろされた。
「ここから絶対動かないで。風向きが変わったら必ず工場の風上へ回って」
 自分が良いと合図するまで絶対に工場へ近付くなと言い残したハインツは、走って事務所棟に姿を消した。
 工場脇の広場では眼を掻き毟り、咳込んでは嘔吐を続ける多数の避難した作業者達。
 着臭刺激剤が速やかに拡散して危険を知らせ、異変を感じ取った彼らは逃げてくれた。暫くは苦しいが、いずれ体内から排出されて症状は治まる。
 苦悶する彼らを見るハナは安堵して不幸中の幸いだと納得出来た。
 その後蒸散が始まる薬効成分を吸ったなら、彼らは死体になっていたから。
 遠くから見守るハナの視界に現れたガスマスクとゴム引きの全身防護服姿。多分ハインツであろう姿が工場内へ進み入った。

「この殺虫剤は 人間にも  危険だな」
 空運転を続ける機械以外、動く物のない第二工場。
 進入したランゲはマスク内でくぐもった声で呟くと、動力盤の充填機械の主電源を停止して、窓や扉を全て開放した。
 回収して密封した薬剤の分量は製品の一缶強に過ぎないが、シアン化水素中毒に発現する全身紅潮のまま動かなくなった逃げ遅れの遺体全てを台車に乗せ、庭に運び出すと広げた雨除けシートの上に並べ、着衣付着分から二次汚染とならぬ様、接近禁止の見張りを守衛へ依頼して、後片付けと除染を始めた。
 発生から約一日、被災の詳細が判明した。
 事故原因は地域一帯の停電で、死者六名、症状観察中十五名。二十一名全て戦争捕虜。
 ドイツ人は全員避難した為被害なし。
「この程度で済んで良かった。生産目標は必達なので、各自の奮起を促すように」
 工場長が現場社員へ指示した言葉に忠実なランゲは、戦争捕虜が行っている第二工場の除染作業を指揮している。告げられた言葉でやる気を削がれたハナは考える。
 工場内の全員が避難出来なかった、或いは狭く密集する場所で発生したらどうなるだろうか。
 ハナは首を横に振ると業務に戻った。
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