第67話 7-1 尾行

文字数 2,198文字

 一九四四年五月三十日、朝。
 ここまで走ってきたレンタカーのブレーキパイプが外れていた。
 走行前点検で見付けたアコニテンがスクゥトムに耳打ちすれば、鋭く勘付いたステラが骨箱をかさかさ言わせて駆け寄る。
「何かあったの?」
「内緒話を知りたい子供ですかね」
「マグフリートが箱の中でもんどり打っていますよ」
 説明をはぐらかすと夜を過ごしたホテルから市街地まで馬車で移動し、レンタカー店で最も頑丈そうなメアツェーデス・ベンツに乗り込み、マグフリートの家族が待つベルンへと走り始めた。三十分もせぬ内にスクゥトムとアコニテンが小声で話し始め、後ろを気にし始める。
「本当に下手糞だな」
「笑っちゃうほど下手糞ですね」
 アコニテンのコンパクトで運転席のスクゥトムが後ろを見ている。後部座席に隣り合うマグフリートの遺骨に手を添えるステラは、自分の化粧の事かと怪訝そうに窺う。
「決して後ろを振り向かず、化粧の振りしてコンパクトの鏡で後続車を確認して下さい」
 アコニテンに言われるままバッグからヴァンクリーフアーペルのコンパクトを取り出すと、パフを頬に当てながら鏡で後ろを改める。
 後続車の運転席と助手席に男が一人ずつ。特に変わった様子はない。
 そう告げるとアコニテンは延々尾行されていますと告げ、スクゥトムに問う。
「振り切りますか、それともこれ、ですか」
 言葉の代わりに助手席足元に二つあるキャンバス地の袋を靴底でトントンと踏むと左腰の護身用拳銃を抜いた。僅かに遊底を引き排莢口に覗く山吹色を確かめるとハンドルを握るスクゥトムの意向を窺う。
「人家もなくなってきた。片付けるか」
 街外れから山間部に差し掛かった頃合いでアコニテンと手短に質疑応答を始める。
「何か良くない事なの?」
「お嬢様、そのクッションをこちらへ」
 車に備え付けの革張りクッションをステラが手渡すと、特注品のメッセンジャーバッグから折り畳みナイフを取り出し、縫い目の糸を切り開く。広げた掌が入ることを確認してスクゥトムの傍らに置いた。
「それを使って、何かするのね?」
「ボクシンググローブにして殴りますね」
「車から出ないで。銃はすぐ撃てる状態で、伏せたり逃げたり臨機に対応して下さい」
 コミカルとシリアスな返答に戸惑うステラもアコニテンに倣い、護身用拳銃の薬室に実弾を装填して安全装置を掛け、右側のポケットに収めるとリボン付きのトーク帽を目深に被り直した。
 周囲に荒地が広がる路側に車を止めると、左手をクッションの中に突っ込んだスクゥトムと、メッセンジャーバッグを上体前面に袈裟懸けした徒手のアコニテンが降りる。
 ボンネットを開けて点検する演技を始めると声が掛かった。

「何かお困りですか? 手伝いましょうか?」
 尾行して来たオペルオリンピアが車両前方の行く手を遮る位置に停車すると、背広にネクタイ姿の男が微笑みながら近付いてきた。細面なその顎には大きな傷跡。
「あ、あいつ。いつぞやの馬糞男」
「奴は任せた。俺は後ろの厳つい奴だ」
 小声で交わしていると細面の後ろから、中背で固太り、見るからに威丈高(いたけだか)な男が前に出て、落雷したかと思う大声で吠えた。
「やい、てめぇら! 車の中のシュテルン何とかやらを渡してもらおうか!」
「お前 アスパタ  馬鹿」
「ダルポン兄ぃは黙ってろ!」
「失礼ね! 私はステラよ!」
「お嬢様も黙ってろ! まったく」
「目から上だけで興味津々なのが分かりますね。あぁ、お嬢様って馬鹿ですかね」
 レンタカーの車内から覗きながら名乗りを上げる声に呆れて苦笑する二人は、兄の田舎芝居を台無しにした厳つい弟、アスパタが近付くとステラに背を向け表情を消した。

 スクゥトムが前に出て進路に立ち塞がると足を止め、僅かな対峙の後アスパタが吠えた。
「どけ!」
 引いた拳を突き出すと見るや、サイドステップで往なしたスクゥトムが筋骨隆々の背を左手で突き飛ばしながら足を掛け、土埃を立ち昇らせながら顔面から着地させた。
「アスパタ! 大丈夫か え」「!」
 視線が離れた隙に姿勢低く死角へ入り込んでいたアコニテンが標的を捉える。
 脚、腰、背、肩、腕、全てを可動域一杯まで総動員した渾身の一撃が、顎の中央を捉えた。
 工場から荷車で運ばれるハナの護衛として物乞いの扮装で同行した際、接触してきたスーツ姿の彼が、今度はステラを略取せんとしている。護衛の為、躊躇いなど微塵もなく、打撃を振り抜いた。
「ごぶゅぁ!」
 ばきっ、と下顎を粉砕し、めりっ、と食い込んだ顎関節と側頭骨を破壊した。
 掌に伝わる骨が砕ける感触、口から吐き出された歯牙、剥いた白目だけでなく、下顎分短く縮んだ顔貌が打撃の効果を示す。
「人の心配している場合じゃなかったね」
 滑稽なパペット人形と化して倒れ、地に横たわる脳震盪(のうしんとう)の彼を鼻で笑い振り向けば、目を輝かせ車窓から覗くステラに呆れるアコニテンは、もう一方の襲撃者に目を遣る。

【文中補足】
メアツェーデス・ベンツ メルセデスベンツのドイツ語読み
オペル オリンピア ドイツのアダム・オペル社が生産した小型乗用車
シュテルン Stern(独)・ ステラ Stella (ラテン語) いずれも“星”
《参考 エステル Esther》
Esther(ギリシャ語 )・Ester(ヘブライ語 ) いずれも“星” が由来。
《蛇足》
美容の“エステ”と、化学の“エステル”の語源とは全く別です。
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