第14話 2-1 外交官エルマー・フォム・ラッツェル

文字数 905文字

 一九三六年七月。
「私は自由だ。何て素晴らしいのだ!」
 英国領インド行き客船の甲板で二枚目の肖像画の男が歓声を上げた。
 エルマー・エーベルハルト・フォム・ラッツェル。
 裕福な高級官吏の家系に生を受け、幼少期は姉と妹に囲まれ飯事(ままごと)に興じ、姉の服を着せられ、唇に母の口紅を塗られると、揶揄い囃し立てられても、鏡の中の自分に見惚れた。
 事ある毎「女々しい」と親から叱られても気にせずに、自分は女の子だと空想に耽り、目覚めれば女性の体になっている事を願うも、股間の性器が元気なのを見る度落ち込んだ。
「男らしくあれ、強く逞しくなれ」
 大多数の男児と違うと気付いたか、家族から頻繁に刷り込まれた呪文。周りとの違いを自覚して以降、表立っては感情を抑え込み続けた。
 体力錬成で筋骨逞しくならない自分は誇らしく、好みの男子のしなやかに発達する身体を盗み見ては恋心を抱く。
 女性であろうとするの異性装は隠れて続けた。姉の服と母の口紅で飾り、鏡の前で見惚れる日々。目撃した使用人の報告を聞いた両親から、嗣子(しし)として家名を汚すな、威厳を保てと厳しく叱責され、外交官の祖父や親戚の話を聞かされ、より厳格に育てられた。
 父が命じるまま外交官への道を歩み始めたエルマーは大学で法律を専攻し、一九三二年第一次司法試験に合格し司法研修生を経て、三年後に準備実習勤務として在フランスドイツ大使を務める伯父の個人秘書となり、一年間パリで働いた。
 仕事を終え、或いは休日になれば、歓楽街に足を向け同性愛者が集う界隈の店を頻繁に覗くが、研修生は品行方正を旨とする為、付き纏う異性装の男達から逃げた。
 歓喜で全身が沸き立つと、期待に打ち震える内心を覆い隠す事もなく、緩み切った顔つきで足取り軽く逃げた。
 一九三六年四月。エルマーは外交官・領事館員試験に備える為ベルリンへ戻り、猛烈な勉強に明け暮れて合格すると、伯父からの高い勤務評価と実務経験から、年末を目途に英国領インドの在カルカッタ総領事館で業務を開始せよと下令された。
 アラビア海に航跡を残す船上から遠くに目的地が霞んで見えると、抑圧から解放され、願うまま奔放に振舞える新しい生活への期待に心躍らせる。
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