第8話 1-7 舞台女優ステラの憂鬱

文字数 1,992文字

(私はマリー・ベルだ。舞台女優だ。シュルツ家に相応しいお嬢様に成り切るんだ)
 いくら自分に言い聞かせても、出来ないことがある。
 学内での研究発表や討論会ならいざ知らず、各界の名士が一堂に会す社交の場など慣れずに疲れるだけ。作り笑いで頬の筋肉が攣り、会話はぎこちなく、気遣いし過ぎの神経が擦り減る。慣れぬハイヒールで幾度も踏むドレスの長い裾は、この場で切り落としたくて仕方ない。
 空腹なのに断れず頂くアルコール。御婦人方に振られる縁談話が追い打ちを掛けて胃が痛い。
 何たる苦行かと音を上げ、社交婦人として堂々と振る舞う臈長(ろうた)けた母を改めて尊敬しながら大広間を外す。
 廊下の隅で痙攣したまま固着した頬の表情筋を(ほぐ)し続けていると、肩に手を置かれた。振り向けば、笑い出しそうな父が紹介したい人がいると切り出す。
「気が進まないだろうが丁寧に接して貰いたい。生じる疑問は後で必ず説明する」
 父がそこまで言う相手なら断れない。
 承知致しましたと頷く表情は麗らかな春の陽の如く取り繕ったが、見合いの場へ連行される内心は暴風雪が吹き荒れ凍死しそうな気分だ。

「何とお美しい。お目に掛かれて光栄です。フロイライン ステラ・フォン・シュルツ。ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラーです」
(コンパスで顔が描けるぞ)
 丸い輪郭に丸い目と丸い鼻と丸眼鏡の童顔なのにスーツ姿。
 着飾った子供が大きくなったらこうだろうなと思いながら握手を終えた。彼が歯切れ悪く三一歳の既婚者と告げたので見合いではないと安堵すると、父が経歴を紹介する。
 国会議員、国民社会主義ドイツ労働者党親衛隊全国指導者。
 聞いたそこまでで嫌悪から寒気を伴い全身の産毛が逆立つのは、ユダヤ人に対し傍若無人な振舞いをする突撃隊を抱える政党の幹部であったから。
 一九三〇年三月に内閣が退陣して以降、議会が正常に機能しないまま、九月の国会選挙で目の前の彼が所属する政党が大躍進した。
「お父様にはわが党と私的諮問機関へ多大なご支援を頂き、感謝が尽きない次第です」
 父は個人として筆頭の献金者で偉大な貢献者だと称えると、口に運ぶグラスの中身は潤滑油かと思わせる滑らかな賛辞が延々と続く。
 パトロン、それも大口の金蔓のご機嫌を伺い祝儀を期待して、隣のバイエルン州ミュンヘンの党本部から遥々集金に馳せ参じたか。
 覚めているステラは内心で軽蔑している。
 父が引き合わせた理由が分からず困惑するステラは、父の手前愛想笑いに取られない自然な笑顔で、得意気に話す相手に相槌を打ちつつ合の手を入れ感心する真似を繰り返す。

「お嬢様の顔色が優れない様ですな」
 精一杯感情を封じたつもりでも、この場を逃れたい気持ちが表情に現れていた様だ。
 胃カタルを患っている為粗相(そそう)せぬ内に下がらせると父が伝えれば辞去を切り出された。
「この場に似つかわしくない私などご覧になったのが宜しくなかった様ですな。私は党務もありますので、失礼させて頂きます」
 笑いを交え、母とステラに挨拶したヒムラーは、お付きの者と共に大広間を去った。
 車寄せで封筒を手渡した父は、手押しポンプと見紛う勢いの握手をされると見送る。
(似つかわしくないだって。その通りだよ)
 無言で毒づくステラは、邸内路をなぞる尾灯が霞むと部屋の窓から離れ、向かった洗面室の石鹸を泡立てると入念に手を洗う。
 寄せた眉間の下の鋭い視線を放つ鏡の中の人物が自分と気付くと、頬にあてた掌で緊張していた表情筋を解して緩める。

『Wenn man unter Wölfen ist, muss man mit ihnen heulen.』
 翌朝書斎を訪ね想いを吐露する娘に反論せず、言葉を引き出し続けていた父は、喋る速さも言葉数も落ち着いた頃に諺を引くと説明を始めた。
 あの政党に従属していると見られているのは分かっている。周りからどの様に見られても、自分にとって使えるものは使う為に上層部に伝手を得た。自分の良心に従い、彼らとは一線を画して決して相手に染められる事はないので安心して欲しいと言う。
 丁寧な父の説明がステラの胸の内へすっと流れ込むと安心を齎したが、父は最後に一言付け加えた。
「有権者の不満を巧妙に取り込む彼らは、いずれこの国に大きな影響を与える事になると思う」
 聡明な父でも最後に不確実な見立てを口にした。それは何かと訪ねても、国を取り巻く情勢が更に混迷するだろうから分からないと言う。
 安堵からの拍子抜けと一抹の不安がステラの顔に現れていたのだろう、今にも笑いそうな父がもう一人紹介したい人がいると言う。
「えっ、まさか、お見合いですか?」

【文中補足】
Wenn man unter Wölfen ist, muss man mit ihnen heulen.
 直訳:狼の群れにおいては共に遠吠えせよ~長いものにはまかれろ・郷に入りては郷に従え
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み