第29話 3-6 説得すれど
文字数 2,012文字
午前八時四十分。
街の騒めきを連れた寒風はコンコルド広場からセーヌの川面を舐め、アナトール・フランス通りのステラの頬を撫でる。周囲を注視し続けていると、大きなメッセンジャーバッグを揺らすアコニテンが駆け寄って言う。
「ソルフェリーノ駅付近にハーシェが現れました。銃を撃てる状態にして下さい」
午前八時五十五分。
風と共に流れる街の騒めき、自動車と馬車の往来、行き交う人々の話し声以外変化のないまま時間は過ぎたが、待てどもハーシェは現れない。絵を渡し身形を伝え、マグフリートに捜索を依頼したアコニテンは、ステラと共に大使館入口から距離を取り待ち続ける。
暫く後、荒い息と共にマグフリートが走って戻ると尋ねる。
「奴は、来ていやせんか? 路地裏に消えたんで追いましたが、見失っちまって」
詫びるマグフリートにまだ姿を現していないから、と宥めたステラは、アコニテンが見掛けた方角と異なる通りから姿を現したハーシェを捉えると、来た、と言葉を発した。
即座に左腰へ手を滑らせ、カチッ、と音を立てたアコニテンが言う。
「奴に襲われたら撃ちますので逃げて下さい」
午前九時五分。
畳石の目地を右へ左へと逸れては戻りながらコートの前合わせをゆらゆらと揺らし、近付いて来るのはハーシェ・フェイベル・グリンシュテイン。
左腰に右手を差し入れたまま擦れ違ったアコニテンが彼の背後に回り込む。
マグフリートが立ち塞がり足を止めさせると、背後からステラが近付き声を掛ける。
「ハーシェ・フェイベル・グリンシュテインさん、貴方へ折り入ってお話があります」
パリの中心で、見目麗しく柔らかな声の女性に、標準ドイツ語でフルネームを呼ばれたハーシェは上擦る声で誰何 し用件を聞く。
「無駄な殺生は止めて下さい」
「は? 何の事だ」
対面するまでは何と言えば良いか悩んでいたステラは、問いに答えず婉曲を排して告げた。
その途端、再び体調が悪化した。
原因の分からぬ息苦しさ、吐き気、眩暈に襲われ、脱力してしゃがみたくなる全身の異変を堪え、言葉を告げ続ける。
「エルマー・フォム・ラッツェルと会うのですね?」
動揺を隠せぬハーシェは平然を装い言う。
「そんな奴知らん。お前に関係ないだろう。どけ。どかないなら殴」
パキボキとステラの背後から拳の関節を鳴らす威圧でマグフリートが続きを封じた。
「ユダヤ人が更に酷い迫害に遭うかも知れないのですよ、止めて下さい」
「何の事だ? 訳分らん事言いやがって」
「災難に遭っているご家族と会いたいなら」
告げる言葉と共に臓腑まで吐き戻しそうな体調など構わず、ステラは言葉を被せた。
「気持ち悪い女だな。これ以上俺に構うと」
寄せた眉の下、鋭利な目つきで睨むハーシェが顔を寄せると酒臭い息と共に告げる。
「お前、死ぬ事になるぞ」
反応して今にも掴み掛からんばかりのマグフリートを片手で制したステラが告げる。
「お願い、引金を引かないで!」
眉を吊り上げ、ふん、と鼻で笑うと、マグフリートの脇を擦り抜けようとする。
「彼を止めて」「承知しやした」
行く手に立ち塞がるマグフリートが足止めする間だけでも、この場に倒れる事が出来たらどれだけ楽だろうと思うほど体調の悪化が辛い。鉛の様に重く海綿の様に力が籠められない全身でハーシェの前に移る。
「貴方のお姉さんの名前は何と言うの?」
「は? お前、頭がいかれているのか? 関係ないだろう」
立ち去ろうとするハーシェに怯まず付き纏えば、胸を締め付ける息苦しさに抗い、ゆっくり息を吸い込むと声を絞り出す。
「お願いだから、教えて!」
食い下がるステラの苦しさから歪む表情に唖然としたハーシェは、もう付き纏うな、本当にやっちまうぞ、と吐き捨て告げた。
「エステルだよ。あばよ!」
ひらひらと手を振ると、来た時と同じゆっくりとした足取りで大使館へ向かう。
「奴を捕まえやすか」
「いえ もう ここまで」
絶え絶えの息でそれどころではないステラは、門衛に近付くに従い背筋を伸ばし、大使館内へと姿を消したハーシェを見送るしか出来なかった。
手探りで取り出した懐中時計は午前九時十分。
『ハーシェ・フェイベル・グリンシュテイン その姉と同じ名を持つ君へ』
全身の不調が消え、軽快な全身状態に戻った事が信じられないステラは思い出す。
謎の手紙通りなら、彼はこの後襲撃に及ぶ。
果してこれで良かったのかと自問自答しながら大使館を見詰めている。
カチッ
小さな金属音に振り向けば、左腰から右手を現すアコニテンが告げる。
「出てくる奴を捕まえる為に待つのも良いのですが 多分」
大きな瞳に不安を浮かべて口を噤むとステラを見詰めるアコニテンが続けた。
「騒がしくなったら犯行に及んだと思って、すぐにここから離れます。良いですね?」
逃げてくる彼を捕まえないのかとステラが問えば、厳しい口調が返ってきた。
「駄目です。私達が拘束されて面倒な事になります」
街の騒めきを連れた寒風はコンコルド広場からセーヌの川面を舐め、アナトール・フランス通りのステラの頬を撫でる。周囲を注視し続けていると、大きなメッセンジャーバッグを揺らすアコニテンが駆け寄って言う。
「ソルフェリーノ駅付近にハーシェが現れました。銃を撃てる状態にして下さい」
午前八時五十五分。
風と共に流れる街の騒めき、自動車と馬車の往来、行き交う人々の話し声以外変化のないまま時間は過ぎたが、待てどもハーシェは現れない。絵を渡し身形を伝え、マグフリートに捜索を依頼したアコニテンは、ステラと共に大使館入口から距離を取り待ち続ける。
暫く後、荒い息と共にマグフリートが走って戻ると尋ねる。
「奴は、来ていやせんか? 路地裏に消えたんで追いましたが、見失っちまって」
詫びるマグフリートにまだ姿を現していないから、と宥めたステラは、アコニテンが見掛けた方角と異なる通りから姿を現したハーシェを捉えると、来た、と言葉を発した。
即座に左腰へ手を滑らせ、カチッ、と音を立てたアコニテンが言う。
「奴に襲われたら撃ちますので逃げて下さい」
午前九時五分。
畳石の目地を右へ左へと逸れては戻りながらコートの前合わせをゆらゆらと揺らし、近付いて来るのはハーシェ・フェイベル・グリンシュテイン。
左腰に右手を差し入れたまま擦れ違ったアコニテンが彼の背後に回り込む。
マグフリートが立ち塞がり足を止めさせると、背後からステラが近付き声を掛ける。
「ハーシェ・フェイベル・グリンシュテインさん、貴方へ折り入ってお話があります」
パリの中心で、見目麗しく柔らかな声の女性に、標準ドイツ語でフルネームを呼ばれたハーシェは上擦る声で
「無駄な殺生は止めて下さい」
「は? 何の事だ」
対面するまでは何と言えば良いか悩んでいたステラは、問いに答えず婉曲を排して告げた。
その途端、再び体調が悪化した。
原因の分からぬ息苦しさ、吐き気、眩暈に襲われ、脱力してしゃがみたくなる全身の異変を堪え、言葉を告げ続ける。
「エルマー・フォム・ラッツェルと会うのですね?」
動揺を隠せぬハーシェは平然を装い言う。
「そんな奴知らん。お前に関係ないだろう。どけ。どかないなら殴」
パキボキとステラの背後から拳の関節を鳴らす威圧でマグフリートが続きを封じた。
「ユダヤ人が更に酷い迫害に遭うかも知れないのですよ、止めて下さい」
「何の事だ? 訳分らん事言いやがって」
「災難に遭っているご家族と会いたいなら」
告げる言葉と共に臓腑まで吐き戻しそうな体調など構わず、ステラは言葉を被せた。
「気持ち悪い女だな。これ以上俺に構うと」
寄せた眉の下、鋭利な目つきで睨むハーシェが顔を寄せると酒臭い息と共に告げる。
「お前、死ぬ事になるぞ」
反応して今にも掴み掛からんばかりのマグフリートを片手で制したステラが告げる。
「お願い、引金を引かないで!」
眉を吊り上げ、ふん、と鼻で笑うと、マグフリートの脇を擦り抜けようとする。
「彼を止めて」「承知しやした」
行く手に立ち塞がるマグフリートが足止めする間だけでも、この場に倒れる事が出来たらどれだけ楽だろうと思うほど体調の悪化が辛い。鉛の様に重く海綿の様に力が籠められない全身でハーシェの前に移る。
「貴方のお姉さんの名前は何と言うの?」
「は? お前、頭がいかれているのか? 関係ないだろう」
立ち去ろうとするハーシェに怯まず付き纏えば、胸を締め付ける息苦しさに抗い、ゆっくり息を吸い込むと声を絞り出す。
「お願いだから、教えて!」
食い下がるステラの苦しさから歪む表情に唖然としたハーシェは、もう付き纏うな、本当にやっちまうぞ、と吐き捨て告げた。
「エステルだよ。あばよ!」
ひらひらと手を振ると、来た時と同じゆっくりとした足取りで大使館へ向かう。
「奴を捕まえやすか」
「いえ もう ここまで」
絶え絶えの息でそれどころではないステラは、門衛に近付くに従い背筋を伸ばし、大使館内へと姿を消したハーシェを見送るしか出来なかった。
手探りで取り出した懐中時計は午前九時十分。
『ハーシェ・フェイベル・グリンシュテイン その姉と同じ名を持つ君へ』
全身の不調が消え、軽快な全身状態に戻った事が信じられないステラは思い出す。
謎の手紙通りなら、彼はこの後襲撃に及ぶ。
果してこれで良かったのかと自問自答しながら大使館を見詰めている。
カチッ
小さな金属音に振り向けば、左腰から右手を現すアコニテンが告げる。
「出てくる奴を捕まえる為に待つのも良いのですが 多分」
大きな瞳に不安を浮かべて口を噤むとステラを見詰めるアコニテンが続けた。
「騒がしくなったら犯行に及んだと思って、すぐにここから離れます。良いですね?」
逃げてくる彼を捕まえないのかとステラが問えば、厳しい口調が返ってきた。
「駄目です。私達が拘束されて面倒な事になります」