第43話 4-7 喪失感

文字数 1,302文字

 狭く粗末な部屋で目覚めれば黴臭さを感じながら周りを見渡す。
 横を向けば部屋の隅に散っている紙屑が目に入った。それが何か分かると、腕の痛みに耐え上体を起こす。立ち上がる段になったハナは異変に気付いた。自らの左脚を見詰めては動かそうと試みて、何とか右脚だけで立ち上がろうとした。
「あっ!」
 筋力の衰えた脚が支え切れず転倒する。それでも手と右脚で床を這い紙屑の許へ寄り、傷だらけになった大切な手紙を、痩せ細って傷だらけの掌で搔き集めた。
 (こうべ)を垂れ、嗚咽を漏らし、凌辱され紙片に成り果てた大切な人からの手紙を啜り泣きながら摘まむ。腰と両腕の疼く痛みを忘れ、丁寧に、愛おしみながら、大切な人が舎監の汚れた手に掛けられ穢された事が受け入れられないまま、ひとつひとつ床に並べ続ける。
 摘まむ為伸ばした指が空を切ると、欠片は尽きていた。
 慌てて戻した視線の先には欠片が幾つも失われた手紙。
 床板にひとつ黒い染みを作った一滴が無限に広がらんとする頃、喉を裂く枯れた大声を発したハナは懲戒室の床に倒れた。
 覗き窓から離れると医師を呼ぶ為医務室へ向かう舎監の口は吐き捨てる。
「後味悪いな、この依頼は」

 ハナが倒れて四日目。
「これは使い物にならんぞ。頭も壊れたな」
 頃合いと見た舎監は再び医師を呼んだ。呼び掛けに反応せず、虚空を見詰めるだけのハナを等閑(なおざり)に診察した医師が言った。
 こいつに手間掛けられないので捨てたいです、労働に向かないと診断書を書いて下さいと依頼すれば、お安い御用だと、カーボン紙を挟み書き上げた診断書の正副いずれにも医師の署名がなされた。
 皆から陰でアイゼンバルト博士と呼ばれているが、診断書の医師としての署名だけは役に立つ。所見欄に下肢の障害と精神衰弱により労働に適さないとの記載を確認した。
「こいつの家族はトレブリンカ送りとあるので身寄りはない。場内に埋める場所も尽きてきた。川に捨ててもライヒの税金で遺体処理になるのは憚られる。さてどうしたものか」
 苦々しくハナを眺め下す舎監長へ診断書を手渡しながら、働く事も、自活も出来ないこいつの処分方法ですが、と舎監が具申する。
「どこの収容所に送っても親衛隊の手間になってしまいますよね」
「そうだ。当社はユダヤ人を生かさず殺さず長く使う事が出来ないと知られてはまずい」
 親衛隊地方組織に申請し、幹部に裏金を握らせれば、労働者の配置は望み通りになる。一方で危険が稀な現場で度々補充を申請すれば、金を渡して病死との診断書を医師に書かせ、申請の際に聴取で色々探られて面倒だ。労働力維持が至上命題の舎監長が悩み始めたと見た舎監は、ほくそ笑むと具申を続ける。
「下着や靴下だと偽って小包を送ってきたユダヤ人に送り返しましょう。奴らの食糧配給も減っていますし、こいつの世話で働けなくなるので共倒れ確実です」
「二匹の蝿を一つの蠅叩きで仕留める。素晴らしい! 早速手配してくれ」
 舎監長のおつむの出来が良くないと見込んで話を誘導した舎監は、首尾よく事が進んで笑いを堪えるのに苦労している。

【文中補足】
アイゼンバルト博士 藪医者のこと
二匹の蝿を一つの蠅叩きで仕留める 一石二鳥のこと
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