第57話 5-8 起死回生

文字数 2,631文字

『デッサウ市アスカニッシェ通り デッサウ合成化学 ハインツ・ランゲ』
 社名入り事務封筒を手にしたステラは小首を傾げ心当たりのない差出人に戸惑ったが、宛名書きの下に小さな文字で一行書き添えてあるのに気付く。
『フラウ ハナ・リリエンタールの依頼による私信』
 レターナイフや鋏を探すのももどかしく、手で破いて開封すると便箋を開く。
 ハインツ・ランゲなる者がハナの何者かなど気にせず読み進めた内容は、ハナの危急。
 冷静になろうと深呼吸を繰り返し、相談内容を纏めたステラは受話器を取る。父のオフィスへの電話は全て航空省調査局が盗聴していると聞かされていたので、取り決めていた通りに、酷いブリガンデドイッチュに符丁を交じえて用件を伝える。

 ベルリンのプリンツ・アルブレヒト通りに面する親衛隊本部八号館。
 親衛隊全国指導者ヒムラーは架電を所望する伝言簿に記された氏名を見ると受話器を取り、通話を始めた。
「ハナ・リリエンタールと言う女性がゲスターポに連行され行方不明になった。手間だろうが、早急に所在を調べ解放して貰いたい」
「そうでしたか。手掛かりはありますか」
 聞き出した内容をメモ書きするヒムラーの靴の爪先がコツコツと床を叩き始める。
 親衛隊全国指導者友の会会員約五十人から入れ替わり立ち代わり電話を所望される。その殆どは副官ヘルフと部下達が捌くが、電話の相手ヴィルヘルム・フォン・シュルツは個人筆頭献金者の資産家で、軍需工場を幅広く経営する企業体の役員でもあり、止む無く対応している。
「ご依頼は承知致しました。一つ確認させて頂きたいのですが宜しいでしょうか」
 柔らかな言い回しで告げると、コツコツ鳴らしていた爪先の動きが止まる。
「なぜ彼女を必要とするのでしょうか」
「彼女は製品の研究開発に欠かせない人材であるからです」
 曰く、安価且つ大量生産が可能で、薬効が向上する製品の完成が遅れる。それは総統も政府も望まないと思うが、如何かと。
 聞こえぬ様静かに鼻先で笑うヒムラーの口角が微かに上がり、爪先がコツコツと音を立てる。
 承知した旨と早速調べて副官から連絡すると告げて電話を切ろうとしたが、進言があると切り出された。
「彼女への処遇が至らない場合、例の裁判への協力が拒まれる恐れがあります。それを防ぐ為に聞き入れて戴きたい事を申し上げます」
 ヴィルヘルムの助言を書き留めると受話器を置いた。
 手元のメモに、該当者の早急な捜索と即時保護、最も丁重な接遇、身柄の引渡しまでの移送警護と記して渡そうとしたそのメモに、ヒムラーは一行書き添えて副官ヘルフに手渡した。
『本件首謀者へ厳重な指導を行え』

「近い内お別れだな。今すぐでも構わんが」
 以前こいつから、まだお前を殺す訳にはいかんのだ、と言われている。
 気分次第で度々銃口を向けるこいつに私が何をしたと言うのだ。
 腹立たしさよりも探りを入れたくて、言い返してやった。
「私を捕らえてもステラは現れないよ。優秀な使用人達がそんなことさせない」
 奴の表情が変化した。矢張りそうだ。
 ステラを誘き出すなんてさせるものか。平然を取り繕うこいつに更に憎しみを向けてやる。
「私を殺すが良い。でもステラはお前らの言いなりになど、絶対にならないぞ」
 撃鉄を起こす鈍い金属音がすると、轟音に襲われた。
 ここの親衛隊員は些細な事で、或いは気分次第で囚人達を射殺する。紙の標的を撃ち抜く感覚で躊躇いもなく引金を引いているだろう。そんな理不尽の極みを幾度も目撃している。
 耳鳴りする左耳に遣った手を見ても出血はない。やはりこいつは私を殺さない。ステラを誘き出す囮にでもするのだろうか、或いは何か別の目的だろうか。

 だが翌日の朝、判断が揺らいだ。
「目を閉じて息を止めて下さい」
 隊舎群外れの倉庫に連行されると全裸にされ、頭の天辺から爪先の指の間まで粉を噴霧された。この噴霧薬はDDTかと疑うより、罵声の命令口調ではない静かな言葉遣いを違和と捉えた。
「シャワーで全身を入念に洗って下さい」
 囚人服ではない、ありきたりの衣服を着させられ、小奇麗な建物に誘導されると、汚れひとつないシャワー室で香料入りの高級な石鹸とタオルを渡され、全身を洗う様に指示された。
 温湯と石鹼で短髪も含め全身を洗いながら、私は何をされるのだろうかと考えている。
 クレゾールの臭いから医療施設と思われるこの建物で、全身を消毒されて(しらみ)退治の硫黄軟膏を首から下にくまなく塗られた。
「こちらのベッドに横になって下さい」
 言われるまま横になると、スタンドに点滴瓶が下げられ、左腕に点滴チューブに繋がる注射針を刺された。毒薬入りの点滴で殺されて、ユダヤ人の人体標本にでもなるのだろうか。
 諦めから恐怖はなかった。しかし、待てども全身のどこにも何の異常も現れない。
「点滴は何なの?」
「リンゲルと栄養剤ですよ、フラウ」
(フラウ?)
 拒まれる事もなく告げられ、終わると別室へ案内される。この医療施設に案内されてから、FrauとBitte、敬称と依頼の単語が必ず告げられている。
「こちらに着替えてロビーでお待ち下さい。お送りする者が迎えに参ります」
 いずれもしっかりした生地で作られた新品の下着、スカート、ブラウス、ジャケット、本革製のパンプス。付き添いの看護婦が案内する更衣室に用意してあった。
(お送りする者 どこへ? 綺麗に身支度させて刑場? 火葬?)

「おい! そこの女! どんな手を使ったんだ!」
 医療施設の玄関を出て、鍵十字の党旗はためく高級乗用車へと誘導された際、罵声を浴びせながらダルポン・アマレキタール・ハンメダシャが駆け寄ってきた。
 暴行されるか射殺されるかと身構えていると、驚く事に奴は私に帯同していた親衛隊員に取り押さえられた。何の事か分からない喚き声をしきりに上げているが、一部分だけ聞き取れた。
「 何で俺が  アインザッツグルッペなど 」
 喚き声を無視して押し込まれた後部座席の座り心地の良さに驚くが、車内にまで響く奴の喚き声と同乗する隊員の嘲笑と嘲りで居心地が悪くなる。
「アインザッツグルッペか、哀れな奴だな」
 どこへ連れて行かれるのだろうか。彼も私も。

【文中補足】
リンゲル リンガー溶液とも 輸液用の水溶液 点滴用薬品等を溶かす溶液
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アインザッツグルッペ 第二次大戦中ドイツ占領下のヨーロッパで、主に銃殺による大量殺戮を行った準軍事組織。
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