第81話 8-7 ステラ・フォン・シュルツ
文字数 1,982文字
一九九二年。ドイツ・カールスルーエ シュルツ家。
「お嬢様、紅茶のご用意が あれ?」
温かな風が書斎のカーテンを揺らす窓際。
運んで来たトレイを置き、書き物の脇で机に伏すこの人の肩を揺するが反応がない。
「お嬢様、 お嬢様っ! 死ぬなんて」
「んもおぉ。気持ち良く寝ていたのにぃ~。まだ殺さないでくれる?」
愚痴と共にこの人が目を覚ませば、なんだまだ生きていたんだ、と切り返す。
「歳で朝早いからですね。でも、変な時間に突然死の体勢で居眠りされると驚きますね」
「八十二歳の私に向かって『お嬢様』は止めてって、何度言っても改まらないのね」
「半世紀以上も呼び掛け続ければ、簡単に変えられないものですね、お嬢様」
「この前私達婆さん二人が手を繋いで歩いていたら何て言われたか覚えている? 『可愛いお孫さんですね』って。年上のあなたが私の孫扱いだなんて、どういう事? 頭にきたから、言った奴を月に蹴り飛ばしてやりたかったわよ」
「曽孫 扱いでなかっただけ良かったですね」
「Fräulein Wunder って持て囃されたのが遠い記憶だわ」
相変わらず話が噛み合わない。
でも、これがいつも通りで、元気だとくすくす笑う私は度々この人の孫と間違われるが、その後必ず褒められるのか妬まれるのか分からない批評を受け続けている。曰く、
「衰えぬ体形と姿勢。スタスタ歩きダッシュも自在な運動能力」
一九七〇年代中盤以降の『ドイツの秋』と呼ばれた不穏な時期。時間を作らされ戦闘射撃、格闘、脱出と逃走訓練に明け暮れ、警護者も増員した最大級の警戒態勢で神経を尖らせていた。
当時の七十過ぎには過酷な訓練と体力錬成に励んだ結果、現役当時の身体能力を取り戻しただけに過ぎない。
「豊かな髪は染めているが、メイク不要な顔貌は見る者全員二十代と見間違う童顔詐欺」
見た目が若いのは、元々の童顔に美容整形を少々施している為。でも詐欺とは失礼だ。
「シミと皺が全くない、張りと艶のある透き通る肌理細かい肌は腹立たしい」
先祖からの遺伝と、日焼け止めを欠かさなかった事が要因だと思う。中東の強い紫外線の下、長時間発掘に没頭すれば、肌の老化も進むと知っているだろうに、八つ当たりしないで欲しい。
「全身に美容魔法を使う魔女に違いない」
最近冗談で告げた「二十五歳です」が通った八十六歳。言うに事欠き魔女扱いとは失礼な、と思うが、魔女と言われようと、加齢に抗 う全身美容を維持し続ける本当の理由は、この人の耳に入れば心を痛めるから絶対口にしない。元々脆いのに年老いて猶更 脆くなった心が壊れて元に戻らなくなるから口にしない。
迫り来るサリッサとの再会に備えているから。
書類が積まれた机上には、二人並んだ写真が飾られている。終戦の年にフランス軍政司令部で撮影させたもので、三十六歳と四十歳だった。
差し出した紅茶とビスケットを楽しむ姿と比較して思う。
元から美形のこの人が心の落ち着きを取り戻すと、亡きゲルトルート奥様が乗り移ったかの様に才色兼備に磨きが掛かり、社交の場に華を添えた。
若き頃が想像出来ない上品な言葉遣い。流れる様に綺麗な所作。落ち着きと品のある上質な服飾。整ったプラチナブロンドに自然な化粧。真直ぐ伸びた背筋の姿勢の美しさ。
学者としては、尽きぬ知性と深い見識から確かな実績を築き、六か国語を駆使して誰にでも誠実に接し尊ぶので信頼される。学界の評価も高く、登壇すると会場の雰囲気が華やぐ。
更には欧州でも有数の名家にして資産家令嬢であるので、フュルストやグラーフに留まらず、国内外の上流階級から求婚が尽きなかったが、『Dame Ablehnen』と呼ばれる程、亡き奥様相手に鍛えた縁談回避能力を全力で発揮し、生涯独身を貫いた。
「アコニテンが傍にいればそれで良いのよ」
「満足の基準が地を抉るほど低いですね」
互いの人生の半分以上を共にし、傍で見ているから本心は分かっている。
マグフリートさん、ハナさん、そして私の夫サリッサ。
自分の我儘で三人を死に追い遣った罪がある。結婚して自分だけ幸せになるなど出来ない。
そう思っているだろう。
追い出すつもりは絶対ないけれど、と断ってから切り出された事もあった。
「私の元に就かなければ別の人生を歩めたかも知れない。これからでも遅くない。辛い想い出のあるここを出て、新しい道を歩む事も出来る。貴女達親子が生涯に亘って経済的に困らない十分な償いと、血の繋がりはないが、シュルツ家の眷属 としての待遇を生涯約束する」
そんな事を言われて選択を迫られたのは万霊節の翌日、十一月二日にサリッサの墓所へお参りした後。重い提案もあって軽食として千切っては口に運んでいた白パンのゼーレが、喉を通り辛くなったのを覚えている。
この人は、数多くの懺悔と後悔を昔から変わらずに引き摺ったままでいる。
「お嬢様、紅茶のご用意が あれ?」
温かな風が書斎のカーテンを揺らす窓際。
運んで来たトレイを置き、書き物の脇で机に伏すこの人の肩を揺するが反応がない。
「お嬢様、 お嬢様っ! 死ぬなんて」
「んもおぉ。気持ち良く寝ていたのにぃ~。まだ殺さないでくれる?」
愚痴と共にこの人が目を覚ませば、なんだまだ生きていたんだ、と切り返す。
「歳で朝早いからですね。でも、変な時間に突然死の体勢で居眠りされると驚きますね」
「八十二歳の私に向かって『お嬢様』は止めてって、何度言っても改まらないのね」
「半世紀以上も呼び掛け続ければ、簡単に変えられないものですね、お嬢様」
「この前私達婆さん二人が手を繋いで歩いていたら何て言われたか覚えている? 『可愛いお孫さんですね』って。年上のあなたが私の孫扱いだなんて、どういう事? 頭にきたから、言った奴を月に蹴り飛ばしてやりたかったわよ」
「
「
相変わらず話が噛み合わない。
でも、これがいつも通りで、元気だとくすくす笑う私は度々この人の孫と間違われるが、その後必ず褒められるのか妬まれるのか分からない批評を受け続けている。曰く、
「衰えぬ体形と姿勢。スタスタ歩きダッシュも自在な運動能力」
一九七〇年代中盤以降の『ドイツの秋』と呼ばれた不穏な時期。時間を作らされ戦闘射撃、格闘、脱出と逃走訓練に明け暮れ、警護者も増員した最大級の警戒態勢で神経を尖らせていた。
当時の七十過ぎには過酷な訓練と体力錬成に励んだ結果、現役当時の身体能力を取り戻しただけに過ぎない。
「豊かな髪は染めているが、メイク不要な顔貌は見る者全員二十代と見間違う童顔詐欺」
見た目が若いのは、元々の童顔に美容整形を少々施している為。でも詐欺とは失礼だ。
「シミと皺が全くない、張りと艶のある透き通る肌理細かい肌は腹立たしい」
先祖からの遺伝と、日焼け止めを欠かさなかった事が要因だと思う。中東の強い紫外線の下、長時間発掘に没頭すれば、肌の老化も進むと知っているだろうに、八つ当たりしないで欲しい。
「全身に美容魔法を使う魔女に違いない」
最近冗談で告げた「二十五歳です」が通った八十六歳。言うに事欠き魔女扱いとは失礼な、と思うが、魔女と言われようと、加齢に
迫り来るサリッサとの再会に備えているから。
書類が積まれた机上には、二人並んだ写真が飾られている。終戦の年にフランス軍政司令部で撮影させたもので、三十六歳と四十歳だった。
差し出した紅茶とビスケットを楽しむ姿と比較して思う。
元から美形のこの人が心の落ち着きを取り戻すと、亡きゲルトルート奥様が乗り移ったかの様に才色兼備に磨きが掛かり、社交の場に華を添えた。
若き頃が想像出来ない上品な言葉遣い。流れる様に綺麗な所作。落ち着きと品のある上質な服飾。整ったプラチナブロンドに自然な化粧。真直ぐ伸びた背筋の姿勢の美しさ。
学者としては、尽きぬ知性と深い見識から確かな実績を築き、六か国語を駆使して誰にでも誠実に接し尊ぶので信頼される。学界の評価も高く、登壇すると会場の雰囲気が華やぐ。
更には欧州でも有数の名家にして資産家令嬢であるので、フュルストやグラーフに留まらず、国内外の上流階級から求婚が尽きなかったが、『Dame Ablehnen』と呼ばれる程、亡き奥様相手に鍛えた縁談回避能力を全力で発揮し、生涯独身を貫いた。
「アコニテンが傍にいればそれで良いのよ」
「満足の基準が地を抉るほど低いですね」
互いの人生の半分以上を共にし、傍で見ているから本心は分かっている。
マグフリートさん、ハナさん、そして私の夫サリッサ。
自分の我儘で三人を死に追い遣った罪がある。結婚して自分だけ幸せになるなど出来ない。
そう思っているだろう。
追い出すつもりは絶対ないけれど、と断ってから切り出された事もあった。
「私の元に就かなければ別の人生を歩めたかも知れない。これからでも遅くない。辛い想い出のあるここを出て、新しい道を歩む事も出来る。貴女達親子が生涯に亘って経済的に困らない十分な償いと、血の繋がりはないが、シュルツ家の
そんな事を言われて選択を迫られたのは万霊節の翌日、十一月二日にサリッサの墓所へお参りした後。重い提案もあって軽食として千切っては口に運んでいた白パンのゼーレが、喉を通り辛くなったのを覚えている。
この人は、数多くの懺悔と後悔を昔から変わらずに引き摺ったままでいる。