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さて、彼女は、無事に猫カフェに採用されて、早速その日から働き始めた。あたしは、少し不安だったので、暫くそこに留まった。すると、彼女、取り敢えず、仕事の内容を覚えて、こなしているようだった。

彼女がお客さんと対応している時に、そこで働いている人と話す機会があった。そこの管理人だと言う。そして、実は、オーナーの息子だとも。オーナーは、自然食のペットフードを作る会社の社長で、猫カフェはサイドビジネスらしい。

その日は、半日だったので、あたしは、吉祥寺をぶらついて、彼女を連れて帰った。それからは、平日は毎日、彼女を猫カフェに送り迎えした。なんだか、子供を幼稚園に連れて行くような按配で。何日か経った頃、彼女を送った後、アパートに戻ろうと思っていたら、管理人から声を掛けられた。
「あの~、ちょっと聞きたいことがあるんですが、外で聞けますか? もし、お時間があったら、隣の喫茶で、コーヒーをご馳走しますけど」
あたしは、ご馳走してくれるものは何でも頂く性分だから、喜んでついて行った。

「あの~、今谷さんの事なんですが、少し変わっていますよね」
「あぁ、彼女の事」
あたしは、彼女の事を持ち出されて、ちょっとがっかりした。
「何が?」
「びっこひいてますよね。それに、この前、張り紙を作ってもらおうとしたら、字がうまく書けないみたいで。まぁ、事務処理はコンピュータなので、問題ないんですが。掃除とかも少し手こずっているみたいで......。それから、『小さい時から猫と付き合ってきたの?』って聞いたら、一応頷くのですが、一言も返事をしないんですよ」
あぁ、やっぱり、気が付いたかと思った。
「えーと、彼女、仕事は大丈夫ですよね? クビにしたりしないですよね?」
「とんでもない。取り敢えず、仕事は大丈夫です。ただ、少し気になって。それに、あなたが、毎日送り迎えしている事も......」

「彼女は交通事故で、多少後遺症が残っています。それから、それよりもっと前に、ケガが原因で、記憶喪失になってしまったのです。それで、個人的な事を聞かれると、喋れなくなってしまうのです」
管理人は、かなり驚いたようだった。
「そうだったんですか。それだったら、分かりました。あっ、もう一つ、彼女、指輪をしてますよね?」
これを聞いて、この人は、彼女に気があるのではと疑いだした。

「あれは、あたしが、男よけにと思って、彼女に買ってあげたんですよっ。彼女は、あたしの兄と付き合ってますから」
「あぁ、そうですか。それに、勘違いしないでください。ぼくは、彼女に気があるのではありませんよ。ぼくは、......」
と言いかけて、少し、ためらった。
「ぼくは、矢国龍也と言います。実は、あなたと少し話がしたかったんです」
これは、意外だったが、悪い気はしなかった。それからは、あたしが、彼女を送って行くと、よく、彼と喫茶店で話をするようになった。

そしてすぐに、この矢国君は、なかなか面白い人だと思った。かなり若いなと思っていたら、法学部中退で、まだ、大学生の年ごろだからだった。なんでも、人権擁護のデモで逮捕されたのが切っ掛けらしい。その他にも、動物保護の運動もしていると言う。そして、首都圏大学中退者の会の会長だと言う。随分と面白い団体があるもんだ。兎に角、お兄ちゃんとは正反対で、賢くて、しっかりしている人だ。ただ、共通点が一つあった。それは、女性経験に乏しいこと。そのせいか、矢国君は、何かと、彼女の事を話題にあたしを誘う事が多かった。

何週間か経って、彼が、あたしに真剣だなと感じた時、おもむろに聞いてみた。
「ところで、矢国君、あたしと付き合いたい?」
彼は、口をポカンと開けて、急に立ち上がって、頭を下げた。
「逸珠さん、お願いします」
まったく、可愛いもんだ。これで、あたしにも彼氏が出来た。それに、彼の家庭はかなり裕福だから、しめしめと。

実際、矢国君が、あたしのどこを気に入ったのか、良く分からないが、もしかしたら、彼女が出来ただけで嬉しかったのかもしれない。あの調子だったら、今まで、女性との付き合いに手こずってきたに違いない。それに、矢国君は、自分の路を進むのが最重要で、それを支持してくれるのだったら、誰でも良かったんだろう。あたしは、貧乏じゃなかったら、誰でも良い。

なんだかんだ言っても、あたし達の仲は急速に進み、彼女もその事に気が付いたようだ。ただ、驚かしてやろうと思い、彼女に頼んで、お兄ちゃんには内緒にすることにした。それからと言うもの、矢国君は、猫カフェを彼女にまかせっきりにして、あたしと遊び歩いた。あたしは、今まで行けなかったようなレストランに連れて行ってもらったり、色々な物を買ってもらった。そうしているうちに、あたし達は、龍君、逸ちゃんの仲になった。

その間、段々と、龍君に、彼女の詳しい話をした。龍君は、彼女が気の毒になり、何とかしてあげたいと言った。そして、龍君が、そういう時は、必ず実行する。それは、お兄ちゃんも、彼女も、あたしも、今まで、あたし達だれもがしなかった事、出来なかった事だ。

龍君の最初のプロジェクトは、彼女の離婚の手伝いをすることだった。まずは、彼女には話さずに、下調べを始めた。流石に、法学部中退と言うだけあって、手際が良い。あっという間に、離婚の専門家になったようだ。彼は、言い切った。
「夫の暴力は、『婚姻を継続しがたい重大な事由』として離婚原因になる。まずは、家庭裁判所へ離婚調停を申し立てよう。幸い、調停期間中、相手に会わなくても済む」

そして、彼女の夫の情報を収集している時の事だ。
「逸ちゃん、奏多さんの夫と言う人、今どうしてるか想像つく?」
「ん~ん。全然。どうしたの?」
「もう居ないよ」
「えっ?!」
「死んだ。比較的最近、何者かに殺されている。隣の住人から聞いて、新聞で確認した。詳細は不明だけど」
あたしは、びっくりした。彼女があんなに恐れていた暴力夫はもう居ない。彼女は自由の身だ! それで、早速、龍君をお兄ちゃんに紹介し、彼女とお兄ちゃんにその情報を伝えた。

その時の彼女の反応は少し理解しがたいものだった。明らかにホッとしているように見えるが、何だか、煮え切らない。お兄ちゃんは、しきりに遠くを見つめるように、感慨に耽っている。そして、彼女が電話に入力しだした。
『助かった。でも、人が死んで喜ぶのは悪い事みたい』
これには、びっくりした。暴力夫が居なくなったのに、罪悪感を感じている? お兄ちゃんも明らかにびっくりしているようだった。

その時、龍君がもう一点付け加えた。
「それで、もし、死後離婚の意味合いを強調したいのだったら、姻族関係終了届を出すことも出来る。それに、もし、旧姓に戻りたければ、それも出来る」
彼女は、少し考えているようだったが、また、電話に入力した。まず、
『それより』
そして、続いて、書いた言葉は驚きだった。
『重衣奏多になりたい』
しかし、全く良く分からない人だ。今、暴力夫の事を憐れむような口調だったのに、今度は、キスもしたことないお兄ちゃんと、結婚したい?! 
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