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それで、やっと、約束の温泉ホテルに行く事になったのは、秋になってからだった。お兄ちゃんが予約を取り、バスで、ホテルに着いた。ここは、前にお兄ちゃんが福引で当たって、タダで来たらしい。券は二枚あったのに、一緒に行ってくれる人がいなくて、一人で来たと言う。何とも可哀そうな人だ。

さて、実際にホテルに来てみると、お兄ちゃんは随分と感慨に浸っている。特に、がらんとした宴会場の様な所に、あたしを連れて行って、一番後ろの席に、長いこと座っている。以前一人で来たとは言え、ここで、何かしら起こったに違いなかった。

その後、エレベーターの中で、家族風呂のポスターを見た。お兄ちゃんは大喜びの様子で言った。
「おい、お前。ここには、予約制の家族風呂があるぞ。予約して、一緒に入ろうか?」
それを聞いて、あたしは思わず、お兄ちゃんにビンタを食らわしてしまった。エレベーターに乗っている人達はびっくりしたようだった。
「ちょっと! お兄ちゃん! あたしたち、小学生じゃあるまいし、もう一緒にお風呂に入る年じゃないでしょ!!」
周りの人たちは、笑いをこらえるのに必死の様だった。お兄ちゃんは、赤く腫れた頬っぺたを手で押さえながら、弱々しく答えた。
「冗談だよ。冗談。痛いな、全く......」

ゆっくりと温泉に浸かった後、あたしたちは、食堂に向かった。食べ放題は嬉しい。あたしは、大食漢ではないが、思いもかけない量を食べた。お腹いっぱいで、少し休んでいる時に、お兄ちゃんが遠くの方をじーっと見つめている事に気が付いた。それは、お兄ちゃんにはあり得ないような集中度だった。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
それでも、まだ見つめている。そして、呟いた。
「今谷さんだ。絶対にそうだ。だけど、どうしたんだろう? びっこをひいているし、表情がない。全く表情がない」
「だれ? それ。もしかして、あの、あたしと間違えた彼女?」
お兄ちゃんは、何も答えない。が、暫くして、すっと立ち上がって言った。
「デザート取って来る」
そして、お皿を取ると、誰か中年の女性の所へ歩み寄った。あたしは、彼女にしては、随分とお年だけど、と思った。お兄ちゃんは、その女性と何か話していたようだが、急にガチャンと言う音がした。お兄ちゃんが持っていたお皿を落としたようだ。この人は、どうして、こうも失敗ばかりするのか。

それから少しして、お兄ちゃんは、あたし達のテーブルに戻ってきた。
「お前、確か、フルート持ってきてたよな?」
「うん。どうして」
「何でもいいから、今すぐ、それを持ってきてくれよ」
あたしは、満腹で動きたくはなかったが、お兄ちゃんがあまりに真剣なので、仕方がなく取りに行った。戻って来た時、お兄ちゃんが言った。
「ちょっと、それを持って、一緒に来い」

お兄ちゃんの後をついて行くと、遠くのテーブルに女性二人が座っていた。一人は、さっきお兄ちゃんが話していた中年の女性。もう一人は、若い、お兄ちゃんと同じくらいの年の女性。この若い女性は、何だか、ぼんやりしていて、表情と言うものが感じられなかった。その若い女性に向かって、お兄ちゃんは、何とも優しそうな声で言った。
「今谷さん、覚えていないかもしれないけれど、僕だよ。重衣津載だよ」

あたしは、やっと、今谷さんと言う人が分かった。それにしても、お兄ちゃん、どうして、こんな人の事を想っているのだろう? 一見して廃人の様じゃない? 何も反応をしないじゃない。それに、一体、「覚えていないかもしれないけど」と言うのはどういうことなのか?

次に、お兄ちゃんは、あたしの持っていたフルートのケースを手に取って、蓋を開けた。それを見て、その後のお兄ちゃんの言葉を聞くと、彼女は急に立ち上がった。明らかに何かに反応した様子だった。そうしている間に、彼女は、あたしの方を向いて、悲しそうな、怒り出しそうな気配を見せた。あたしは、少し怖くなったけど、お兄ちゃんがあたしの事を説明してくれた。そうしたら、驚いたことに、彼女は急にお兄ちゃんに抱き着いた。お兄ちゃんは、よろけながら彼女の事を受け止めた。二人は、なかなか、離れなかった。どうやら、二人ともよっぽど好き会っているのは確かだ。やれやれ。

あたしは、あまりの状況にあっけに取られてしまった。お兄ちゃんに彼女が居た? それが、廃人の様な、狂人の様な、正体不明の人? 二人の感動が少し落ち着くと、二人は、お互いに見つめあっている。お兄ちゃんが、ぼそぼそと何やら話すのだが、彼女は、一切口を開かない。彼女は普通ではない。そう思わざるを得なかった。

そうしているうちに、彼女の連れの中年女性が、お兄ちゃんにコソコソと話をした。その後、四人で、彼女たちの部屋の前まで行き、彼女と中年女性が中に入った事を見届けて、お兄ちゃんとあたしは自分達の部屋に戻った。

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その晩、あたしは、お兄ちゃんから、今谷さんの詳しいことを聞いた。お兄ちゃんの会社の先輩だったこと、仕事以外の個人的な事を一切話さないか、話せない事、暴力夫の事、失踪と再会の繰り返しの事、英語が得意な事、このホテルでフルートの演奏をしていた事、そして、偶然、大阪で一日一緒に過ごした後、またもや失踪して、それから会っていなかった事。

「随分と、途切れ途切れな付き合いだね~。それで、お兄ちゃん、彼女の事どのくらい知ってるの?」
「あ~......、それを聞かれると困る。あまり知らない。正直言って、ほとんど知らない。でも、心配するなよ。俺は、彼女と何か月もの間、毎日一緒に仕事をしていたんだから」
「それで、どこまでいったの?」
「お前、そう言う事は聞くもんじゃない」

何とも、ややこしい話だ。あたしは、まだ、どうして、そこまでして、彼女の事を追い求めるのだろうと思っていた。いくらでも、普通の女性が居るのに。まぁ、それは、出来損ないのお兄ちゃんの事だから、やっとの思いで知り合った彼女を手放す訳にはいかないんだろう。それは、あたしの感知するところではない。

翌朝は、四人でテーブルを取って、朝食を食べた。お兄ちゃんも、彼女も嬉しそうだ。夕べまで、廃人同様だった人とは思えない。そして、どうやら、お兄ちゃんと彼女の連れの中年女性が打ち合わせをしたらしく、帰りのバスは、四人一緒だった。お兄ちゃんはさっさと彼女と座って、早速、熱々だった。仕方がないので、あたしはその中年女性と、少し離れた所に座った。この人は、瀬鷲さんと言った。

今度は、瀬鷲さんから彼女の事を聞いた。暴力夫から逃げだして、瀬鷲さんのボランティアするホームレスシェルターに来たこと、その夫に殴られてから記憶喪失だった事、なかなか仕事を続けられなかった事、何か月か前に交通事故で大けがをして、今度は、瀬鷲さんの事を含めて、その事故以前の記憶をすべて失ってしまった事、そして、それ以後、廃人の様になってしまって、一言も話していなかった事。それに、瀬鷲さんは彼女がお兄ちゃんとこういう仲だったという事は全く聞いていなかったらしい。

昨夜、部屋に戻ってから、瀬鷲さんは、彼女の記憶をいろいろと試してみたらしい。その様子では、彼女は、お兄ちゃんとフルートを見て、交通事故で失っていた記憶はほぼ取り戻したらしい。ただし、暴力夫に殴られたより前の記憶は未だにないようだ。お兄ちゃんの方はと言えば、瀬鷲さんから聞くまで、彼女が元々記憶喪失だったり、ホームレスシェルターに居た事さえ知らなかったらしい。

しかし、お兄ちゃんも、とんだ彼女を作ってしまったものだ。記憶喪失で言語障害の人妻。訳ありの極致だ。これから、どうするんだろう? バスを降りると、瀬鷲さんが、「では、さようなら。今谷さん、荷物は、今度持っていくから。しっかりね」と言って帰ってしまった。なにー!!!??? どうなってるの? あたしは、あっけに取られていたけど、お兄ちゃんは彼女の手を繋いだまま、さっさと歩き出した。この二人、どこ行くの? お兄ちゃんは、途中で、気が付いたようで、後に取り残されていたあたしに叫んだ。
「おい、何突っ立ってんだ? 帰るぞ!」

「帰る」って? あたしはやっと気が付いた。お兄ちゃんは、彼女をアパートに連れて行く気でいる。まさか、そこまで進んでいたとは! あたしは猛烈に驚いた。同時に、あたしはどうしたらいいんだろうと不安になった。熱々のカップルのアパートに居座る事はまずいに決まっている。でも、折角の東京暮らしを断念するつもりはない。アパートに戻ると、二人は、依然としてイチャイチャしている。兎に角、即刻に、何とかしないと、あたしの居場所がない。
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