1.募る(冬)

文字数 1,990文字

独り者の僕にとって、年末年始と言うのは寂しい時だ。アパートに一人でいるよりはと思って、外に出てみた。冬の陽は低く、夕刻はかなり寒かった。商店街で正月休みのための食材を仕入れた時に、福引の券をもらった。実際にやってみると、思いがけず二等賞が当たった。つまらないものにはついているものだ。商品は二人分の水上温泉ホテル宿泊・交通券だった。喜びよりも、迷惑にさえ感じた。他に一緒に行ってくれる相手も思いつかず、例の同郷の友人を誘ってみた。彼の返答は、「おれはカノジョと行きたいな。お前、その券、二枚ともくれよ」だった。癪に障ったので、結局、一人で行く事にした。

さて、宿泊券を使う時が来た。ホテルでは、到着早々、ゆっくりと温泉につかった。僕は普段、簡単なシャワーの方が好きなのだが、ホテルの温泉だったら話は別だ。じんわりと温まることが出来るし、何もせずに只々、浸かっていればいい。気持ちのいいものだ。それに、夕食は食べ放題だ。一人暮らしだと、食べる物も限られている。それで、全品食べてみた。この時ばかりは、抽選に当たったことに感謝した。

さて、その日最後のイベントは、サックスの演奏だった。実際行ってみると、奏者は急用が出来、代わりに職員がフルートを吹くと言う。それも悪くはないだろうと思った。僕は遅れて行ったので、最後列に座った。フルートの奏者は、サングラスをかけた若い女性だった。演奏はしみじみとした曲が多く、僕でさえ、大いに楽しんだ。とても感情がこもっていて美しかった。そして、特に最後の曲は、どうしても奏者の愛の告白の様に聞こえてしかたがなかった。

演奏が終わった時、最前列に座っていた人が質問した。
「あの~、最後の曲は、何というのですか?」
「あぁ、あれは、スタジオジブリのアニメ、『海がきこえる』の主題歌で......」
この声を聞いて、僕は動転した。僕には、はっきりと分かったのだ。彼女だ。僕は慌てて彼女の所に駆け寄った。彼女はフルートを片付け、サングラスを取ったところだった。僕が話しかけようとした瞬間、彼女も僕に気が付いた。

彼女は、物凄く喜んだような顔をして、僕の方に寄って来るように思えた。ところが、急に、両手で顔を隠し、フルートをそこに置いたまま、走り去ってしまった。またしても、話す事さえ出来なかった。ただ、フルートを置きっぱなしにしてあったので、僕は、それをホテルのフロントに届けた。その時、フロントの人が、事の経緯を教えてくれた。予定されていたサックスの奏者は、実は退職間際の外科医で、演奏は趣味で、無償でやっている。ただし、急患が入ると来れない。その頃、川辺でメイドがフルートを吹いていると言う噂が広まり、これを聞きつけたホテルの管理人が、サックス奏者が来れない時に、代わりの演奏をしてくれないかと頼んだのだそうだ。そして、彼女の本来の仕事はメイドなので、翌日の朝、また来るだろうという事だった。

翌朝、彼女の事を聞きにフロントに行った。その時の話では、彼女は急に仕事を辞め、同時に、社員寮も引き払ったと言うのだ。またしても、逃げられてしまった。ただ、その時、一つ考えが浮かんだ。
「あの~、僕は、今谷さんの知り合いなんですが、多分、そのフルートを届けられると思うので、預かってもいいですか?」
「そうですか。大丈夫だと思いますよ。ここにあってもしょうがないですしね」
僕にとって、そのフルートは、彼女の形見となった。その日は、からっ風の吹く寒い日で、太陽はほとんど上がらないかの様だった。僕は、温泉ホテルでの束の間の休暇気分も忘れて、悲しい気持ちで、アパートに帰った。そして、彼女のフルートを取り出して、その吹き口に、そっと自分の唇を付けてみた。前夜、彼女の唇がそこに触れていたと思うと何とも言えない気持ちだった。

やはり、彼女には恵まれた時代があったに違いない。人前であれだけの演奏が出来るのは、大した才能だ。芸術家の家庭かもしれない。そして、あの感情のこもった演奏は、彼女の心の中にかなり思いつめたものがあるのだろう。それは、簡単に発散できるような単純なものではなく、複雑な、入り混じった感情に違いない。

それにしても、僕には一つ疑問に思っていることがあった。彼女は、どうして、わざわざ他人の目に留まるような事をするのだろう? ガラス越しの餃子作り、ツアーガイド、フルートの演奏。この様な行為は、あの暴力男から逃れると言う点では、不利なはずだ。世の中には、幾らでも人目に付かないような仕事があるはずだ。それでは、もしかしたら......、彼女、誰かに見つけられて、助けられたいとでも思っているのだろうか? まさか、僕に見つけて欲しい気持でもあるのだろうか? これはうぬぼれかもしれないが、彼女の方から僕の手を握ったりすることがあるのだから、全くの間違いではないかもしれない。
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