1.募る(朝)

文字数 1,996文字

往復夜行バスの旅は思ったよりきつかった。だけど、それでも陽は昇る。バスを降りてからは、明るい朝日がやけに眩しい。出勤まではまだ時間があったので、一度アパートに戻って、一休みしようと思った。ぼおっとした目をこすりつつ、アパートの階段を上り切った時に、幻を見たかと思った。僕のアパートのドアの外に、今谷さんが膝を抱いてうずくまっているのが見えたのだ。昨日大阪で歩いている途中に、僕のアパートが久我山病院のすぐ隣で救急車がうるさい事を話したので、ここが分かったのかもしれないと思った。

急いで駆け寄って、「今谷さん!」と言いながら、手を取って彼女を立たせた時は、さらに驚いた。実は、その女性は、僕の妹だった。ろくでなしで、厄介者の妹だ。着ている服が似ていたので、服装に無頓着な僕は、もう勝手に今谷さんだと期待し、そう思い込んでしまったのだ。頭に来るくらいがっかりして、
「お前! こんな所で何してんだよ!!」
と怒鳴ってしまった。妹は平気な顔で言った。
「誰? その今谷さんって。彼女? どこまでいったのぉ~? それでー、あたしはね、お兄ちゃんに会いたくて来たんだよっ!」

僕は、あっけにとられた。僕は......、この妹にずっと意地悪をしてきた。それなのに、妹は、この僕に会いたくて訪ねてきたと言う。僕は、まだ困惑状態にあったが、諦めざるを得なかった。それに、今までとは少し違う気持ちが芽生えていたのかもしれない。
「まぁ、いいか。お前、朝飯まだだろ? 兎に角、中に入れよ。今、何か用意するから」
妹は妙に嬉しそうな顔をした。なんだ、このろくでなし、結構可愛いもんだと思った。

そして、美味しそうにトーストを食べている妹を見ていたら、何だか感傷的になって来た。食事が終わって僕が食器をかたずけている最中、後ろの方から、突然フルートの音がしてきた。それは、今谷さんが演奏会で最後に吹いた、『海がきこえる』の主題曲だった。あのろくでなしがフルートを吹いている? それも、あの曲を?

僕は、妹が吹き終わるや否や聞いた。
「お前! フルート吹けるのか? その曲はどうした!?」
「お兄ちゃんって、ほんとにあたしの事に関心がないのよね。悲しいなぁ。あたしがずうーっとブラバンに入っていたの、ほんと~に覚えていないの? 全く知らない訳ないよね? そして、この曲はね、『お兄ちゃん大好き』っていう曲。それより、お兄ちゃんがフルート持ってる方がおかしいよね! どうしたの? どうせ吹けないんでしょ? あれっ、もしかして......、彼女の?」

僕は、それには答えなかった。僕は、自分の妹がこんなに可愛いと言う事に気が付かずに散々いじめてきたのだ。それなのに、妹は、どうして僕の事を好きだと言うのだろう? ただ、兄妹で血がつながっているからだろうか? 僕がどんなにいじめ続けても好きだと言うのだろうか? ...... はっ! 待てよ。今まで考えもつかなかったが、今谷さんは、最初、あの暴力男の事をほんとに好きで結婚したのかもしれない。そうだとしたら、当然、訳があるだろう。

例えば、何らかの理由で悩み続けていた彼女がホームから電車に飛び込もうとした瞬間、あの暴力男が、怪力で彼女を取り押さえたなんて事はどうだろう。そして、彼女は男に惹かれた。ただ、僕が妹の可愛さに気付かなかったように、あの暴力男も、その後、今谷さんの良さに気付かずにいたのかもしれない。それで、段々と、本性を出して暴力を振るうようになった。それで、彼女は男から逃げだした。彼女が自分の意志で結婚したとしたら、それに後悔しても、自分の責任もあり、離婚が出来ないでいる。そうかといって、周りの人には事実が言えない。まぁ、僕がこんな妄想を重ねても意味のないことだ。

ハッ!! 全く同じではないが、僕と妹の関係にも通じるところがあるかもしれない。僕が自分の妹をこれ以上いじめ続けたら、妹もいずれは愛想をつかして寄り付かなくなるだろう。そうしたら、僕もあの暴力男と同じではないか。ひょっとして、今谷さんには、僕が妹をいじめてきたような人間だと言う事が見えてしまっていたのかもしれない。それで、僕に好意を寄せていながら、暴力男に対してと同様、逃げざるを得なかったのかもしれない。

となると、今、僕に出来ることは一つ。自分の妹に少しでも優しくすることかもしれない。そうしたら......、もし、万が一、僕がまた今谷奏多さんに会えることがあったら、彼女も僕の事をためらわずに受け入れてくれるかもしれない。そうだ、きっとそういう時が来るに違いない。今まで、運命は何度も僕を彼女に会わせてくれたじゃないか。そして、今まで陽が昇らなかった事もないじゃないか。そう思うと、僕は少し明るい気持ちになって、妹に声を掛けた。
「おい、お前、今日は会社行くの辞めたよ。ちょっと、ゆっくりしようと思う。お前とな」
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