2.彼方(秋)

文字数 1,291文字

シェルターに滞在中、私がなかなか行動に出ないので、ボランティアの瀬鷲さんは心配した。それで、彼女の住んでいる浦和近辺で仕事とアパートを探したらどうかと勧めてくれた。私は、すっかり瀬鷲さんを頼りにした。昼頃、浦和に着き、駅前のガラス張りの餃子屋さんで餃子を食べた。その時、そこの求人のポスターをみて、深く考えずもせずに、そこで働くことにした。そして、駅からは随分と遠い、安アパートを借りた。

餃子作りは想像以上に根気のいる仕事だった。全く同じ単純作業を一日中繰り返す。私は、単純作業は好きではないと言う事が分かった。それでも、生活の為、続けなければならなかった。そして、私は、自分がかなり忍耐強いと言う事も分かった。気持ちを無にして頑張れば出来ると。そうでないと、どうしても、彼の事を考えてしまう。今や、もう彼と一緒に仕事が出来なくなって、私は、悲しい。それで、どうしても、気持ちを無にすると言う事が必要になって来た。そして、いずれ、時間が解決してくれるかもしれないと期待していた。

彼はどうしているだろう? 一人で仕事をさせられているだろうか? 誰か、他の先輩に着いただろうか? 失敗して課長にどやされていないだろうか? 誰か女性と付き合っていないだろうか? 私の事は覚えているだろうか? 私の事を想っているだろうか? 仕事を手伝ってあげたい。彼と一緒に外回りに出掛けたい。でも、それは、叶わぬ夢だ。

その日は、心地よい秋晴れだった。それで、私の心もいくらかは晴れ晴れしていたと思う。少しは軽快な気持ちで、餃子店に出勤し、いつもの様に、単調な作業を始めた。ところが、昼前に驚く事が起きた。店のガラスの反対側に、彼が立っている。思いっきり手を振っている。私は、すぐに作業を止めて、彼の目の前に出たかった。しかし、そんなことをしたら、仕事をクビになってしまう。それに、また、私の心は揺さぶられた。彼は、私が人妻である事を知ってしまった。どうして、そんな私に、今だに気を留めているのだろう? ひょっとして、私のそんな事情は関係ないとでも言うのだろうか? いや、そんな事はない。彼の様な若い男性が、わざわざ人妻の事を好き好みはしないだろう。

多分、私は、泣いていたと思う。作業に区切りがついた時、もうどうしようもなくなって、店から出てしまった。どこまでも、走っていった。そして、走れなくなった所で、思いっきり泣いた。どっちにしても、もう餃子店での仕事は続けられなかった。そうしているうちに、秋も深まり、寒くなってきた。何とも寂しい。私は、またシェルターに戻らざるを得なかった。

どうして、こんなことになってしまったんだろう? どうして、運命と言うものは、私に、こうも辛く当たるのだろう? 私が、あんな男と結婚していなかったら? 私が、記憶喪失なんかになっていなかったら? 私が、彼と出会っていなかったら? いや、運命が私を彼に会わせたのには訳があるはずだ。彼以外、私の夫に立ち向かう事が出来た人はいないに違いない。あの時、あの事に、何かの意味が有るに違いない。そう言う考えは、どうしても消えなかった。
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