2.彼方(夏)

文字数 1,857文字

私は、また、ホームレスシェルターでの生活を始めた。挫折感はぬぐえない。悶々とした日々を過ごしている時、夕刻に突然、東南アジア系と思われる若い男性が入ってきた。スタッフにしきりに何かを訴えているのだが、スタッフは対応に困っているようだった。

私は、思わず呟いた。
「大変だわ」
丁度そこに居た瀬鷲さんが驚いて尋ねた。
「えっ? 何が?」
「あの人、路上で見知らぬ男たちにお金を取られたうえに、ガールフレンドを連れ去らわれたと言っているわ」
「えっ? あなた、あの人の言っている事が分かるの?」
「えぇ。あの人の英語、かなり訛りがあるけど、言っている事はよく分かる。気の毒だわ。フィリピンからガールフレンドと一緒に出稼ぎに来て、まだ日本語がよく話せないって言っているわ」
「あなた、ちょっと助けてちょうだい!」
と言う訳で、私がそのフィリピン人の通訳を務めた。シェルターの責任者は、その話をまとめて、すぐに警察に連絡した。

記憶喪失になってからは、英語を使う事などなく、気が付かなかったんだ。私は、英語を聞いても、日本語と同じように理解できる。自分の事でなければ、言いたいことはすべて英語で話せる。それで、その後は、シェルターでテレビの英語インタビューを通訳させられたり、外国人利用者の為の表示を作ったりするようになった。

私は、どうして英語が話せるのだろう? 全く、記憶はない。もしかしたら、私は留学でもしたのだろうか? アメリカンスクールにでも通っていたのだろうか? それとも、海外に住んでいたのか? いずれにしても、この発見が切っ掛けになって、私も少しは元気が出た。

そして、瀬鷲さんが、次は、英語を使う仕事をしたら、と勧めてくれた。それで、私もその気になって、調べ始めた。やってみようと思ったのは、英語のツアーガイドだった。書店で全国通訳案内士に関する本を買って準備にかかった。ところが、試験は年に一度しかなく、次の試験まで一年近くも待たなくてはならないことが分かった。ボランティアだったら、資格なしで出来るが、私は収入が必要だった。

それで、ダメもとで、幾つか観光会社を当たってみた。横浜の小さな会社に電話した時、突然、横浜についての説明文を聞かされ、その場で、英語に訳すように言われた。言われた通りにすると、電話の後ろで、何やら話し声が聞こえ、その後に言われた。
「どうやら、あなたは、バイリンガルの様だから、すぐに働いて欲しいんです。ただ、まだ資格を持っていないと言う事で、ちょっと相談なんですが......」
その相談というのは、資格を取るまでは、表向きはボランティアとして活動して欲しいと言う事だった。とは言っても、裏でちゃんと報酬を払うと言う。つまり、「もぐり」だ。それでも、私はホッとした。もし、電話の面接の時に、自分の事でも聞かれていたら、私は黙ってしまって、ここまで行きつかなかっただろう。それで、私は、やってみることにした。そして、その間に、試験の準備をすればいいと思った。この時、気分転換に、髪の毛を短くした。

幸い、旅行者との対応は、自分の事を話さないため、私でも会話に困ることはなかった。それで、比較的早く仕事にも慣れ、それなりに納得のいく日々を送っていた。少なくとも、そう思っていた。さて、ある梅雨明けの暑い日、カナダからの一行を連れて、みなとみらいと赤レンガ付近を案内した。なぜか、この人たちの話し方は、親しみが湧く。一行をバスに乗せ、自分も乗り込もうとしていた矢先、なんと、どこからともなく、彼が現れて、私に声を掛けた。あまりの不意打ちだったので、私の正直な気持ちが出てしまった。気が付いた時には、もう、彼の手を握っていた。彼は、びっくりしたようだった。

彼の表情を見て、私は我に返った。あぁ、いけなかった。もっと考えてから行動しなければと。彼は、今だに私の事を気には留めているようだ。だけど、それ以上の何だと言うのだろう? 私の状況は以前と同じだ。何も変わっていない。私は、平気な顔をして、彼の前に出れるような人間ではない。そう思うと、悲しくなって、思い切ってバスに乗り込んだ。そして、バスは、あっけに取られている彼を後に、出発した。

その後、私は、バスを降りて帰路についたが、途中で足が進まなくなり、その場で、なかなか沈まない夏の夕陽を最後まで見届けた。そうしたら、急に悲しくなってきた。どうして、毎日毎日、太陽は沈まなくてはならないのだろう? どうして、いつまでも私たちを照らしてくれないのだろうかと呪った。
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