1.募る(夜)

文字数 2,241文字

季節は巡る。そして、この、物事に鈍感な僕でも春は待ち遠しい。柔らかな日差しが、僕の冷えた心を暖めてくれる。さて、大阪にいる友人から、結婚披露宴の招待状が来た。新幹線は確かに速くて便利なのだが、予想外に高い事に気が付き、往復共、夜行バスを使う事にした。学生時代、夜行列車で各地を旅した記憶が蘇る。バスターミナルで、予約したバスを見つけ、乗り込んだ。乗車券に記された指定席を探し、座ろうとした時、僕は、目を疑った。隣の窓際の席に、座っていたのは......、彼女だった。それにしても、どうして、運命は僕を彼女に合わせるのだろう? 彼女は、僕の事を見ると、目を真ん丸にして、驚きを隠せないようだった。そして、この時は、彼女も逃げられないと観念したと見えた。疑いなく嬉しそうな顔をしたのだ。そして、ゆっくりと会釈をした。

僕は、それでも警戒して、彼女に席を立たれないように慌てて自分の席に着いた。これで、大阪に着くまで彼女をブロックできる。その間に、少しでも彼女と話が出来たら、と期待した。ところが、彼女は相変わらずだった。僕が挨拶したり、何回も逃げられてしまった時の事を口に出しても、一言もしゃべらないのだ。ただ、恥ずかしそうに微笑んだり、頷くだけだった。

バスが走り始めて暫くすると、照明も夜間用に切り替えられ、車内には沈黙が漂った。それで、話しずらくなった。僕は、彼女の隣に座っていることで依然興奮していたが、何もできずにいた。暫くして、彼女は眼をつぶってしまった。恐らく疲れているのだろう。

実は、僕も眠かった。前の晩、部長の退職祝いでさんざん飲み歩いた後、夜中はアパートの隣の病院に立て続けに救急車が来て、安眠妨害をされたからだ。それで、僕もいつの間にか眠っていた。何時間経ったか、気が付くと彼女が僕の手を握っている。そして、僕の肩に頭を乗せたまま、すやすやと眠っている。とても、あの、しっかりした職場の先輩の頃からは想像できない。どちらかと言えば、言語障害を持つ妹の様だ。この時ふと、僕は、自分の妹の事を思い出した。しかし、気持ちはすぐに、隣にいる彼女の方に戻った。そして、思った。この様子だと、恐らく、あの暴力夫と違い、僕の事は、一応、安心できるのだろうと。

大阪に近づき、彼女も目を覚ませた。「おはよう」と言うように、ちょっと首を傾げた。そして、僕の手を握っている事を思い出したのか、少し顔を赤らめた。それでも、手を離そうとはしなかった。その後、なぜか、僕も話はしなかった。ただ、彼女の手をしっかりと握りしめ、心の中で、打ち明けた。「会いたかったよ」と。

大阪に着くと、僕らは手を繋いだままバスを降りるた。もう彼女は逃げなかった。手ぶらだった僕は、彼女の小さなボストンバッグを持ち、その辺りを当てもなく歩いた。僕はいろいろと彼女に話しかけたが、彼女は相変わらず喋らない。時々、仕草で反応する。その後、一緒に喫茶店でモーニングを食べ、それから、僕は「大阪城へ行こう」と誘った。彼女は素直に応じた。僕は、彼女にどうして大阪に来たのかと聞いたが、返答はなかった。単なる旅か、それとも、バッグ一つで引っ越しか。

その後、暫く歩いてから、僕は思い切って、僕のアパートに来ないかと聞いてみた。水上の温泉ホテルの時からフルートを預かっているから返したいとも言った。確かに、どういう理由でも、夜行バスで大阪に来た彼女に、また東京に戻ろうと言うのは変かもしれない。だが、手を繋いで歩いてくれたことで、僕は、彼女が僕と一緒に時間を過ごすことを受け入れてくれていると思ったのだ。だが、この時の彼女の反応は少し理解しがたかった。明らかに「いい」とか「いや」と言うものではない。しきりに何かを考えているように思えた。

今までは想像も出来なかった事だが、昨夜の夜行バスから今まで、僕らはずっと一緒だった。それに、トイレに行くとき以外は、ずっと手を握り合っている。それで、僕はすっかり安心した。彼女は、明らかに僕に好意を寄せている。彼女はもう逃げない。そう信じ切った。それで、昼食時の結婚披露宴の間、隣のレストランで待ってもらうようにした。僕は、彼女を座らせて、カレーライスを注文した。そして、会場に出かけた。そこに居る人々を見て、やはりもう少しまともな格好をして来ればよかったと思ったが、そんな事は、もうどうでもよかった。

まだ披露宴が終わる前に、僕は、なぜか急に不安になった。それで、会場を少し早く抜け出して、レストランに戻った。その時、僕は後悔してもしきれなかった。もう、彼女はいなかった。どうして、彼女を残して披露宴なんかに行ったのだろう? どうして、彼女と一緒に居なかったのだろう? 僕は、奈落の底に落ちた。午後は、あてもなく大阪中を歩き回り、落ち込んだまま、夜行バスで東京に戻った。同じ夜行バスでも、行きとはえらい違いだった。もう、次の朝になっても陽は昇らないのではないかとさえ思った。

まてよ、ヘミングウェイが『陽はまた昇る』と言う小説を書いていたと思う。僕は訳本さえ読んだことがないので、内容は知らない。だが、その題名は良いなと思った。昇ってくれないとやりきれない。そして、前に課長が言った事を思い出した。アメリカに旅行した時、帰りの飛行機では太陽を追って飛ぶので、ずっと陽が落ちないと言っていた。今の僕には、その様な状態が必要だと思った。そして、僕の人生が、ずっとそんな調子だったら、いいのになと思った。
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