1.募る(夏)

文字数 2,034文字

以前課長に言われたように、僕でさえ、新人の指導を受け持ち始める時が来た。正直言って、まだ非常に不慣れなのだが、自分の出来が悪いために、後輩をけなしたり、どやしたりと言う事もない。それで、嫌がられてはいないようだ。

その後しばらくした梅雨明けの暑い日、同郷の友人に誘われて横浜ワールドポーターズで行われたバーンゴルフのトーナメントに参加した。僕は、そんな遊びはやったことがなかったので、お粗末な結果だった。その後、友人はデートだと言う事で、僕は一人取り残された。みなとみらい周辺は初めてだったが、随分と面白い物がある。例えば、そばの遊園地に行ってみたいとさえ思った。ただ、一人で行くのも気が引けるので、そのまま、あてもなく歩いた。

赤レンガの近くの公園まで来た時、外国人の観光ツアーの脇を通った。丁度その時、ツアーの参加者の一人がガイドに質問をした。それで、皆そこで立ち止まり、ガイドが質問に答え始めた。その返答がやけに流暢な英語で、あまりに日本人離れした発音だった。僕には、何を言っているか全く分からなかった。まぁ、英語だろうとは思ったが、仮に、フランス語かドイツ語であっても、僕には変わりはなかったかもしれない。それでも、ただ、一つ気が付いたことがある。それは、その声が、彼女を思い出させたのだ。それで、もしやと思って、ガイドの顔が見えるところまで動いて見た。その時、僕は、自分が声の認識だけは得意だと言う事が分かった。以前と髪型は違うのだが、間違いなく彼女だった。

僕は喜びの余り、ツアーの参加者を押しのけて彼女の所に走り寄りたかった。しかし、またもや仕事中の彼女の妨害をしてはいけないと思い、じっと我慢した。その後、彼女とツアーの人々に気づかれないように、こっそりと後をつけた。仕舞に、一行はバスに乗り込んだ。その後、彼女がまだバスの外にいる時に、僕は近づいて話しかけた。
「今谷さん!」
彼女は驚いた表情を見せた後、嬉しそうな顔をして、僕の手を握った。僕は、すっかり浮かれて、油断してしまった。すると、彼女は、触ってはいけない物に手を触れたような表情に変わり、僕の手をサッと離すと、慌ててバスに乗り込み、ドアを閉めた。僕は、あっけにとられたまま、そこに立ちすくんでいた。彼女は、ガラスに両手を当てて、こちらを向いている。そして、目は涙ぐんでいた。

またしても、彼女に逃げられてしまった。僕は、ツアー会社に電話をして彼女の居所を突き止めたいと思った。が、やはり、無理やり追いかける事は良くないことだ。それに、今までの事を考えれば、彼女はすぐにガイドの仕事を辞めてしまうだろう。ただ、今回、一番心に残ったのは、彼女が僕の手を握ってくれたことだ。あの、病院の時と同じように。これは、彼女の愛情の表れではないかと思わざるを得なかった。それは、ほんの僅かな慰めだったが、当然、がっかりした気持ちの方が強かった。僕は、その場で、なかなか沈まない夏の夕陽を最後まで見届けた。そうしたら、急に悲しくなってきた。どうして、毎日毎日、太陽は沈まなくてはならないのだろう? どうして、いつまでも僕らを照らしてくれないのだろうかと呪った。

それにしても、彼女の状況別無口ぶりを知っている僕としては、ほんとに不思議に思う事がある。仕事をしている時の彼女は、どうやって、あんなに平気で言葉が喋れるのだろう? それも、外国語まで。後で、翻訳をしている知人から聞いた話だが、職業として外国語のガイドをするにはかなり難しい資格を取らないとならないと言う事だった。この知り合いは、その資格試験に合格できずに、翻訳をしていると言う。彼女の場合、試験は難なくパスしたのだろう。と言う事は、すでに相当な語学力があったはずだ。それに、あの発音は学校英語だけでは身につかないだろう。やはり、相当に教養のある家庭で育ったに違いないのだ。

では、仮に、成人前に、両親に不幸があり、彼女だけ取り残されたとする。え~と、あの、カレーライスに固執するのは、何か、両親との思い出の様なものがあるのだろうか? その後、ひょんなことから、あの暴力男の保護下に入り、無理やり結婚させられたと言う事もあるだろうか? ないとは言えない。この線だとつじつまは合いそうだ。それにしても、逃げ出すくらいなら、どうして離婚しないのだろう? 夫の暴力は、十分に正当な理由になりそうなものだ。

そして、彼女は過去の事を、とことん隠そうとしている。悪いことをした訳でもないのに、どうしてか? もしかして、過去の事で、自分が穢れた存在にでもなってしまったと感じているのだろうか? あの暴力男と結婚していることで、もう他の男性とは結ばれないとでも思っているのだろうか? 僕は、彼女の過去を問うつもりはない。過去は変えられない。それでも、例えどんな過去でも、僕は、彼女のすべてを知りたい。だけど......、もし、彼女が言いたくないのだったら、追求するつもりもない。
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