1.募る(秋)

文字数 1,734文字

僕は、失敗を重ねながらも、同じ仕事をなんとか続けていた。それでも、課長に、翌年には新人指導を受け持ってもらうと言われている。さて、その日は、心地よい秋晴れの中、浦和の駅から随分歩いた所まで営業に出向いた。帰りは少し疲れたので、電車に乗る前に一休みすることにした。そして、まだ少し早いが、混む前に昼食を取ろうと思い、駅前をうろついてみた。

その時、ガラス越しで餃子を作っている店に目が留まり、餃子が食べたくなった。同時に、中で餃子を作っている女性は、よくも、ああやって一日中同じことを繰り返し、繰り返し続けていられるものだと感心した。相当な忍耐力に違いない。僕には到底できない芸当だ。その女性は、帽子をかぶって、マスクをしている。それで、初めは気が付かなかったのだが、それが急に彼女に思えてきた。そして、よくよく見るとどうしても間違いないと確信した。

もう衝動が治まらず、僕は、ガラスの真ん前に立って、しきりに手を振り始めた。彼女はやや困惑している様子で、仕舞に、餃子店の責任者の様な人が出てきて僕に言った。
「失礼ですが、何をしているのですか?」
「あっ、あの、今餃子を作っている人、僕の知り合いなんです。出来れば、少し話がしたいのですが」
「ほんとにそうですか? ちょっと待っていてください」

責任者は中に戻って、彼女と何やら話をしている。彼女は、ちらっとこちらをのぞき見したが、少し目を逸らすような仕草もした。僕には、その仕草が彼女らしいと思った。責任者はその後また戻ってきて言った。
「どうやら人違いの様ですよ。彼女はあなたの事は分からないと言っていますよ」
「はぁ~」
僕は、煮え切らない返事をして、それでも、そのままそこに立っていた。責任者は、どうしようもないと言う顔で店内に戻った。

その後も、彼女は餃子を作りながら、チラチラッと僕の方を気にはしているようだ。そして、僕は気が付いた。彼女の目から涙が零れていたのだ。その時、彼女は作業の区切りになったのか、店の奥の方に行った。僕は目で彼女を追いかけた。ところが、いつの間にか、彼女は店の脇の方から抜け出し、餃子を作っている格好のまま、走り出した。

僕は、どこまでも彼女を追いかけていきたい気持ちでいっぱいだった。だが、あの暴力男の様に、離れていく女性を追いかけるのは、いけないことだ。それで、ひどくがっかりしてその場を去った。その後も浦和に行く事はあったが、予想通り、彼女は、もう、そこで働いてはいなかった。そうしているうちに、秋も深まり、寒くなってきた。何とも寂しい。彼女がどういう状況か分からないが、少なくとも自活をしているのだろうと思った。それに、おそらく、あの暴力男からは逃れているだろうとも。その点については、安心した。だが、僕にも会ってくれない。ほんとに会いたくないのだろうか? それとも、何か事情があるのだろうか?

彼女は、営業の仕事がよく出来、餃子を作り続ける根気がある。いい加減な家庭で育ったとは思えない。それが、あんな暴力男と結婚するには何か深い訳があるに違いない。何しろ、僕はあまりに彼女の事を知らないので、なんとでも想像は着く。例えば......、父親の事業が失敗し、やくざに代償を迫られ、彼女が嫁ぐことで借金を解消した。それが、あの暴力男だ。耐えられなかった彼女は逃げ出した。この世の中、実際にそう言う事がないとは言えない。だが、もし彼女が逃げだしたら、父親の方に仕打ちがあるのではないか? 彼女がそんなことをするだろうか? あの彼女が父親思いじゃない訳はない。つまり、彼女があの暴力男から逃げだしても、他の人々に迷惑はかからないような状態なはずだ。

それでは、彼女が自分の意志であの暴力男と結婚した? まさか。または、ある種の結婚詐欺にでも引っかかったのか? でも、あの、しっかりした彼女が詐欺に引っ掛かるようなタイプにも思えない。それにしても、彼女の無口の様子は徹底している。辛い過去の話を避けるために意識的にそうしているのだろうか? それとも、過去にあった、あまりの精神的衝撃の為に、何かしら障害が生じてしまったのだろうか? 僕は医学の事は一向に知らないが、状況別無言症なんてものがあるかもしれない。
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