2.彼方(春)

文字数 4,859文字

私が初めて彼に出合ったのは、桜の花咲く初春、彼の入社初日だった。当面の間、私が彼の仕事の指導をするように言われた。とは言っても、私はまだ入社二年目だし、彼も私も、年は同じくらいに思えた。一人で仕事をするのに慣れてしまっていたので、初めは戸惑ったが、一生懸命に仕事を覚えようとしている彼に、悪い印象はなかった。だが、どうも、要領がいいとは言えず、何かと手間のかかる人でもあった。

また、私たちは、毎日行動を共にするので、彼は何かと話しかけてくる。そして、これは他の男性社員にも共通するのだが、彼も、私を女として見ている面があり、それには少し困った。私は、兎に角、自分で働いて生きていける基盤を作ることが第一で、とても、男性の事など考えている余裕はなかったから。

それに、私にとって、仕事以外の事、特に、自分の話をするのは極めて難しい。それは、確かに、私が記憶喪失になってしまった事に起因している。過去の記憶がないために、以前の事や、それに関係した自分の事を考えられず、言葉が詰まってしまう。何かを言おうとしても、結局、口は動かない。私の場合、返答は、微妙な態度や素振りになってしまう。それで、私は、仕事以外の事は、話したくないか話せないと思われていた。結局、その頃までには、男性社員からあまり相手にされなくなっていた。

私は、それで良かった。兎に角、今は、自活できればいい。自分自身の事さえ良く分からないのに、とても、男性の事を理解できるわけがない。そんな時に彼と一緒に仕事をするようになって、また、自分についての質問に対応しなくてはならなくなった。例えば、彼は、私が昼食にカレーライスばかり食べることを不思議がる。ところが、この事について聞かれても、私自身、はっきりした答えはない。ただ、食べたくなるし、いつも美味しく感じる。何か、もう思い出せない思い出があるのかもしれない。

それでも、彼には、他の男性社員とは違う何かを感じた。他の社員は、私が口を利かないと、無視していると思って、仕返し的に無視するとか、がっかりして、ぷいっとそっぽを向いてしまうとか、中には、怒り出すような人もいた。彼も、確かに、私の事に相当に興味があるようなのだが、他の男性社員の様に、私を獲物として扱っているのではない。もっと、謙虚な感じだ。彼は、私がしゃべらなくても、私の行動をよく見ていて、よく理解してくれる。それに合わせて、適切に対応してくれる。それに、なんだか私を大事にしてくれているような気がする。それは、新鮮な感じだった。それで、彼と一緒に仕事をする事は、一向に苦にはならなかった。彼には、他の男性にはない、何かしらの安心感があった。

さて、何か月か経ち、まだ春の様な日々が続いていた頃の事。私は、梅雨なんかに入らずに、いつまでもこのままの陽気だったらいいのに、と思っていた。私の気分は、どうしても、天候の影響を受けやすい。その日の外回りからの帰り、彼と一緒に市谷の駅を降りた時、薬局に用事があることを思い出した。それで、彼には先に会社に戻ってもらうように言った。

私が薬局に入ろうとした矢先、突然、私の夫が現れ、「こいつっ!」と言って、私を突き倒した。私は、地べたに座り込んでしまった。その時、その様子を見たらしく、彼が駆け寄ってきて、夫に、言った。
「何をするんですか!」
私はびっくりした。あの、全く強そうではない彼が、いかつい私の夫に文句を言ったのだから。それにしても、私は気が気ではなかった。最初に私の頭に浮かんだのは、彼には、この男が私の夫だと言う事を知られたくないと言う事だった。

私が、こんな凶暴な男と結婚しているのには、訳があるはずだ。「はず」と言わざるを得ないのは......、私には記憶がない。いつだったか、夫に殴られた時に、何かしらの脳障害を起こしてしまったらしい。その時以前の記憶が無くなってしまっている。夫は、私が記憶喪失になったと知ると、意識的に過去の事を隠した。全く、ひどすぎる! 私は、理由も分からずに凶暴な男の妻でいる事が耐えられず、逃げ出した。

当てもなく、長いこと路地をさ迷い歩いている時にホームレスの人がシェルターに入るところを見かけた。私は、つられるようにその後を追い、中に居た人に助けを求めた。この時、私の事を心配して大変親切にしてくれたのが、ボランティアの瀬鷲さんだ。彼女は、私が暫くそこに滞在出来るように計らってくれ、その間にアパートと仕事を探すのを手伝ってくれた。私は、自分の過去の事は思い出せないのだが、事務的な会話は出来るし、日常の作業も出来る。それで、自分の過去の事を話さなければ、普通に生活が出来ると思っていた。

当然、自分の過去についても知りたいし、調べたかったが、良い事だけでなく、何かとてつもなく悪いことに気が付きはしないかと言う不安があった。大体、あんな凶暴な男と結婚する経緯を知ったとして、何になるのよ!!! 自分の最も卑下すべき部分を見つけてしまうに違いない。それに、大変親切ではあったが、瀬鷲さんは、系統だって物事を処理する事は苦手で、私の過去を調べる事などに関しては、手助け出来るような人ではなかった。それで、過去の事は、生活が安定してから、調べ始めようと思った。いずれにしても、その頃は、まず新しい生活の基盤を作る事が最重点だった。そして、やっと生活も落ち着いてきたところだったのに......。

それなのに、どこで調べたか、または、偶然か、私の夫は、私を見つけて、また暴力を振るい始めた。そして、そこに、彼が巻き込まれた。その後、彼と夫は、押し問答をしていたが、急に、夫が彼の胸倉を掴んで殴り出した。私には見てられなかった。彼は、もう、一撃で気を失い、その後も、殴られっぱなしで、顔は血だらけだった。その時、通行人が呼んできたようで、すぐそばの交番から警察官が二人やって来た。夫は、警察官に取り押さえられようという瞬間に逃げ出した。彼はすぐそこの病院に救急車で運ばれた。私は会社の同僚だと言って、彼に付き添う事を許された。

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彼は、応急処置の後、幾つかの検査を受け、病室に連れて行かれた。ベッドの隣の椅子に座ったが、私の頭の中は大混乱だった。彼は、私の事を心配して、自分の身に何が起こるか考えもせずに、体を張って私をかばってくれた。それで、こんな事態になってしまった。おかげで、私は夫に捕まらなくて済んだ。本当にありがたい。だけど、私がさっさと夫に捕まっていれば、彼はこんな状態にならずに済んだのに。そう思うと、情けない。申し訳ない。

兎に角、一番心配だったのは、彼の事だった。気が気ではなかった。もし、意識を取り戻さなかったらどうしよう? それに、もし......、もしも、彼が記憶を失ったりしたらどうしよう? そこまで不安になった私は、そっと彼の手を握った。私は、ずっと彼の手を握っていてあげたかった。それが、その時私の出来る最善だと思ったから。彼の意識が早く戻ってくれますように!

そして、永遠と思われるほどの時間そうしているうちに、気が付いた。彼以外の男性社員が、彼と同様に私の事をかばってくれただろうか? 彼は、たとえ、情けないように見えても、男らしい。強くはなくても、優しい。それだけじゃない。彼は、なぜか、私の存在を肯定してくれるような人だ。私の事を知りたがっているが、私が自分から言えるようになるまで待っていてくれる。そう言う人だ。いつの間にか、私の気持ちがどんどんと膨らんでいた。

多分、私の過去には、私の事を本当に大事にしてくれた人が居たと思う。それは、私の父かもしれないが、もう覚えていない。そして、今でも、私には、誰か私の事を大事にしてくれる人が必要なのに違いない。今までの様に、強がりを言ってはいられないのかもしれない。この今、私の限られた記憶の中で、私の事を命をかけて守ってくれた男性は、彼ただ一人。今、彼の手を握って、私は、ほとんど初めての様に、男性に惹かれている気がした。そして、ほとんど初めての様に、男性にすがりたいと言う思いがした。私の頭の中には、ほとんど初めての様に、男性との将来と言う事まで浮かんでいた。

確かに、仕事に関して言えば、彼は要領が悪くて、私が助けてあげないと、うまくは出来ない。でも、人間は誰でも、長所短所がある。ひょっとしたら、彼と私はお互いに助け合って、初めて一人前になれるような組み合わせかもしれない。私たち、一緒に居たら、幸せになれるのかも......

と言っても、意識を取り戻したら、彼は、私の事をどう思うだろうか? 夫に突き飛ばされた私を哀れに思っているだろうか? 私の事を、頭がおかしいと思っていないだろうか? 私が隠れ人妻だと知って、私の事をさげすみはしないだろうか? いずれにしても、私が人妻である限り、どんなに彼の事を想おうと、どんなに彼と一緒に居たいとさえ思っても、無理だ。そうしている間に、彼が目を覚ました。そして、ゆっくりとこちらに顔を向けた。私は、とっても嬉しくなった。そして、空想の真っ最中から、現実に戻った。それで、安心したのと同時に、手を握っている事が少し照れ臭くなった。それで、手を離した。立ち上がって、ゆっくりと頭を下げた。それは、飛躍しているかもしれないが、愛おしい人の所へ嫁ぐ花嫁の挨拶の様な気持ちからだった。

次の瞬間、私は、彼の頭の中を想像しながら、自分の気持ちを整理しようとした。ある意味では、彼が夫から私の事を救ってくれた事が切っ掛けで、私の彼に対する想いが明確になった。ただ、今や、彼は、私の結婚の事を知ってしまった。それでも私の事を気にしてくれるだろうか? 私は、とてつもない恥ずかしさと、情けなさに襲われた。彼に、こんな無様な私を見せたくない。そして、人妻が夫以外の男性に好意を寄せるなんて、許されるのか? 私は、今の自分の状態に対して、我慢が出来なかった。

振り子の様にゆり動く私の心。その時、振り子の糸が切れたように私の心はある方向に飛んで行ってしまった。それは、私は、彼とは一緒には居られないと言う気持ちだった。もう彼とは一緒に仕事は出来ない。もう、この仕事は続けられない、と。それで、そっと立ち上がって、病室を抜け出そうとした。彼に呼び止められた時、彼の方を一度振り返ったが、悲しくなって、思い切ってそこから立ち去った。

病院を出た時、空は、どんよりとして、もう日差しはなかった。もうじき梅雨入りかもしれない。私は、今の気持ちでこの梅雨の間、耐えられるだろうか? その後、会社に戻って、課長に彼の状態を伝え、早退させてもらった。そして、アパートに戻ると、疲れ切った体に鞭打って、荷物を片付けた。明日、アパートを出よう。その後、眠れぬ夜を過ごし、翌朝早々に、私はすべてを後にした。

その日、とうとう梅雨入りした。私は、重い足を引きずるようにホームレスシェルターに向かい、そこで、瀬鷲さんに会った。事情があって仕事を辞め、アパートを出ざるを得なかったと打ち明けた。ただ、詳しいことは言わなかった。それは、自分でさえ良くまとまっていない思考をうまく伝えられなかったから。次の仕事とアパートを探すまで、そこに居させてもらう事にしたが、それからは、うんざりするようなジメジメした日々だった。それで、なかなか、うまくいかずに、思いの他長いこと、そこに滞在することになった。

急に失踪してしまって、彼はどう思っているだろうか? 新人の指導者として、あまりにも無責任ではないか? でも、私には、他の人にはない事情がある。私は、いったい誰なのだろう? 私の過去はどんなだったのだろう? どうして、あんな凶暴な男と結婚しているのか? さっさと離婚すべきではないか? でも、ろくに記憶さえなくて、どうやって? 私は、困惑する一方で、一向にいい考えは浮かばなかった。
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