2.彼方(冬)

文字数 2,772文字

「あなたは、なかなか、一つの仕事を続けられないのね」
シェルターのボランティア、瀬鷲さんは少し呆れたように言った。
「いつも特別な事情があってって言うけど、もう何回もだものね」
そう言われても、私はどうしようもなかった。私には、本当に特別な事情がある。そうしか言えなかったし、そう思うしかなかった。

ただ、どんなに呆れていようが、瀬鷲さんは心から優しい人だ。今度は、瀬鷲さんの夫の系列会社にホテルチェーンがあり、メイドを求めているから、やってみればと言う。それで、早速、応募し、採用された。私の配置されたのは、水上にある温泉ホテルで、社員寮に住むことが出来た。メイドの仕事も、これまた極めて単調で、それ自体は、楽しい事でも、やりがいのある事でもない。けれど、こんな私でも、また自活できるのだと言う満足感はあった。

その日は、通常の作業の他に、夕食後のサックス演奏の準備と後片付けを手伝うように指示された。おかげで、初めて、その様なイベントがあると言う事に気が付いた。そして、サックスの音を聞いていたら、なんだか、胸の内が揺さぶられるような気がした。「あぁ、いい音! いい曲!!」と、心の中で叫んでいた。例え言葉には出なくても、恐らく、私の表情はそれを物語っていたに違いない。そうだ。私は、ずっと音楽が好きだったんだ。それだけじゃない。私は何か楽器が出来る。

次の休みの日、私は気が向くままに、噂に聞いていた音楽の街、高崎に出向いた。楽器屋を教えてもらい、見つけると、勇んで中に入ってみた。色々な楽器がある。そして、陳列されてある、ピカピカのフルートを見た時に、強く感じた。「これだっ! 私の楽器だ」そう気が付くと、無性に吹きたくなった。だが、値札を見ると、一番安いモデルでさえ、私の持ち金では到底買えない。私は、随分長いことそこに突っ立っていた。

仕方がないので、今度は、楽譜を見てみた。音符を見ながら、心の中で口ずさむと、馴染みの曲がいくつもあることに気が付いた。フルートがあれば、みんな吹ける。そう思った。仕方がないので、気に入ったフルート独奏曲集を一冊買うことにした。その時、店員が話し始めた。
「この楽譜、いい曲がたくさん入ってますよね。フルートを吹くんでしょう?」
当然、私は、自分についての質問には答えられない。一応、頷いたつもりだが、多分、それより悲しそうに見えたに違いない。そして、お金を払おうとしたところ、お財布から私の全財産がポロポロっとこぼれ落ちた。店員は、私の予算の少なさと、フルートを見つめていた事から察したようだった。

「フルート高いですよね。あのぉ......、この店は新品しか扱わないのですが、中古のフルートを下取りもするんですよ。その後は、中古楽器屋さんに転売するんですけど。それで、実は、昨日下取りした中古のフルートがあるんですけど、もし興味があったら、特別に下取り価格でお譲りしてもいいですよ」
店員は、店の奥の方から確かに中古と思われるようなケースを持ってきた。
「これです。ケースは大分傷んでますが、フルート自体は十分きれいですよ。試してみますか? 一応、すべてキーが働くかどうか調べた方がいいでしょう? 今、マウスピースを消毒しますから」

それで、私は、そのフルートを手に取り、思いつくままに吹いてみた。短いフレーズを吹き終わると、店員が言った。
「あー、凄くいい音が出ますね! それは、楽器のせいじゃなくて、あなたの気持ちでしょう」
私は、中古のフルートと楽譜を手に、久々に晴れ晴れしい気持ちでその店を出た。

それにしても、私は、どうしてフルートが吹けるのだろうか? クラブ活動か? それとも、特別にレッスンでも取っていたのだろうか? 私は、どんな家庭に育ったのだろう? いずれにしても、この、新しい発見は、私の事を、少なからず元気づけた。

それからは、休憩時間に、川辺に出てフルートを吹くようになった。だれもいない静かな場所で、さらさらと言う渓流の流れをバックグラウンドに、思う存分吹いた。私は、随分たくさんの曲を覚えていたし、指は、考えずに、自然に動く。それに、ホテルのロビーとかで流れている曲を聞いて、それを吹くことも出来ると分かった。今、自分の事が話せない状態になってしまって、フルートの音が私の声......

どうやら、他の従業員が私のフルートを聞いていたようだった。噂を聞きつけたホテルの管理人に呼ばれ、サックス奏者が休みの時、フルートの演奏をしてくれないかと頼まれた。私は、ためらいはしたが、結局、頼まれた通りにすることにした。

そして、演奏の曲目を考えた時、どうしても吹きたい曲があった。それは、彼と外回りでよく通った、吉祥寺駅の駅メロの一つだ。単純な駅メロに編曲されても、凄くロマンチックな曲で、はっきりと私の心の中にあった。彼が私の夫に殴られた日の午前中、吉祥寺駅のホームでその曲に聞き入っていた時の事だ。彼が「今谷さん、危ないよ」と言って、そっと私の肩を掴んでホームの後ろの方へ引き寄せてくれた。多分、彼は、その曲も、私の事を心配してくれた事も覚えていない気がする。

そして、最近、寮の休憩室でスタジオジブリのアニメ、『海がきこえる』のビデオを見た時、あの駅メロが、そのテーマ曲だと言う事を知った。なんだか、音楽を聞いているだけで、涙が出てくる。そして、彼の事を思い出す。それで、いつも、演奏の最後には、その主題歌の歌の部分をフルートで吹くようにしている。私の秘めた気持ちを込めて。

独り者の私にとって、年末年始と言うのは寂しい時だ。でも、ホテルの仕事には最も忙しい時だ。それで、私も忙しく働くことで、寂しさを紛らわしていた。年が明けて暫くした頃、また、サックス奏者が休みなので代わりに演奏して欲しいと言われた。それで、その日も、私の定番を披露した。

最後の曲を吹き終わって、片付けようとしたところに、部屋の後ろの方から駆け寄ってくる人がいた。それは、またしても彼だった。私は彼に飛びつきたい衝動に駆られながら、すでに考え始めていた。今でも、同じ状況だ。私は、彼とは一緒になれない。そう思うと、物凄く悲しくなって、フルートを置きっぱなしにしたまま、そこを飛び出してしまった。寮に戻り、身の回りを片付け始めた。またもや、もう、ここにもいられないと思った。次の日の朝早く、寮を出て駅まで歩いた。その日は、からっ風の吹く寒い日で、太陽はほとんど上がらないかの様だった。

しかし、考えてみれば、おかしなことだ。私が人目に付くような事をしてしまったのは、偶然だ。おかげで、彼に三回会えた。嬉しかったが、やはり辛かった。逆に、運が悪ければ、夫に見つけられて連れ戻されてしまっていたかもしれない。運命は私に味方してくれているのだろうか?
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