2.彼方(曙)

文字数 3,708文字

私は、落ち込んでシェルターに戻った。私を見て、瀬鷲さんは、面接に失敗したと思ったらしい。
「あなた、仕事なんていくらでもあるんだから、気を落とさないでね」
と言ってくれた。私は、内心思った。彼は、一人しかいない。

それから、どのくらい経ったのだろう。三寒四温の春の陽気は、私の心に多少なりとも影響を与えてくれた。そして、ある暖かい日に、思い立った。大阪では、幸運と不運が交差していた。でも、確かに、彼は、私と一緒に居たいと言った。遠すぎた道に、別れを告げよう。心を決めて、彼の所へ行ってみよう!

それで、次の日曜日、まず、久我山病院まで行き、すぐ隣のアパートと言うのを探した。その条件に値するものは数件あった。それでも、表札を見れば分かるだろうと期待した。丁度その時、少し先のアパートの辺りで、ドアの開く音が聞こえた。そして、そこから、男女が出てきた。それは、彼と、誰か若い女性だった。とても楽しそうに、お互いにぶちあったりして、はしゃいでいた。私は谷底に落ちた。彼は、こんな短い時間の間に、もう、彼女を作ってしまったの? いや、もしかしたら、ずっと付き合っていたのかもしれない。彼のそんな様子を見ることがこんなに辛いなんて。いずれにしても、私の出る幕は無かった。

その後、とぼとぼと歩いて、交差点に来た時には、涙で目がくらみ、足元も覚束なくなり、よろよろっとして......

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その日、わたしの所に警察署から電話がありました。どうしたのかと思うと、ついさっき、今谷さんが交通事故に遭い意識不明で、所持品の中にあった唯一の電話番号がわたしのものだったそうです。何があったのでしょう? わたしは、心配になり、大急ぎで病院に駆けつけました。そんな訳で、この話の続きは、わたしが引き受けざるを得なくなりました。

申し遅れましたが、わたしは、彼女がホームレスシェルターに来た時にお世話をさせて頂いたボランティアの者です。その時、彼女は記憶喪失で、わたしが何かと手助けをしてあげないとならない状態でした。ただ、わたしは、学業も世渡りもとことん苦手な者で、うまくお手伝出来たかは疑問です。それに、その頃は、個人的な事は除いて、彼女もそれなりに話が出来たのです。すぐに、彼女はわたしの事を乳母の様に慕ってくれるようになりました。

さて、彼女の病室に駆けつけた時は、ショックでした。頭は包帯でぐるぐる巻き、片足は紐で吊られていました。それでも、彼女は数日後に意識を取り戻しました。わたしはほっとしました。ところが、目を開けても、視線がうつろな感じなのです。わたしの事を見るのですが、なんだか、認識していないかの様でした。それに、まだ一言も言葉を発してはいません。お医者さんに聞いたことでは、ほぼ確実に記憶喪失に陥っているという事でした。

この世の中、一生に二度も記憶喪失になる人が何人いるでしょうか? そして、今回は、わたしの事を含めて今までの事全部を忘れてしまったのでしょうか? それに、左足もかなりのケガで、一生びっこをひくようになるだろうと言われました。

その後、一か月ほどして、退院しても良いと言われましたが、この状態では、一人暮らしも無理そうだし、仕事どころではありません。家族と言えば、あの、暴力を振るう夫だけです。それで、彼女を、わたしの家に引き取ることにしました。今は空いている子供部屋に滞在してもらうようにしました。また、退院する時に、記憶喪失の専門家を紹介していただいたのですが、どうやら、全く意味がないようなので、仕舞に、通うのを辞めてしまいました。わたしは、只ひたすらに、何かのきっかけで彼女が記憶を取り戻して欲しいと思っていました。そうでなくても、少しでも、生き甲斐の様なものを見つけてほしいと思っていました。

今の彼女は、何年か前にわたしのボランティアしていたシェルターに来た時とは随分様子が違います。あの時は、彼女にはやる気があったのです。何かを探し求めていたのです。今は、極端な言い方をすれば、廃人の様になってしまったのです。わたしは、無能でも我慢強い方なので、何か月も、好転する事を願い、待ちました。が、その間、ほとんど変化は見られませんでした。

丁度その頃、わたしの夫が、会社の系列の温泉ホテルの招待券を貰って来たのです。夫は、彼女を連れて二人で行って来たらどうかと言うのです。これは、やはり無能なわたしの夫としては上出来なアイデアだと思いました。それで、彼女と一緒に、ここ水上の温泉ホテルにやって来たのです。

彼女の事もあり、このわたしでさえ、多少気が滅入っていたのでしょう。温泉に浸かってゆっくりすると、なんだか、少しは落ち着いた気分になりました。そして、彼女も、少し、気分がいいように見えました。何かに気が付いているような素振りさえ見受けられました。ホテルにあるいろいろな物を注意深く見るのです。何かしら、刺激する物があるようなのです。まぁ、以前このホテルで働いていた訳ですから、無理もないと思いました。夕食は食べ放題なので、何回も料理の置いてある所に取りに行きました。彼女も、珍しく食欲が出たようで、それなりに食べていました。

わたしが一人で食べ物を取りに行っている時、若い男性が近寄ってきて、かなり興奮した様子でわたしに声を掛けました。
「あの......、失礼ですが、僕......、あの、あなたの連れの人と知り合いなのですが......」
「あぁ、彼女ですか? どういったお知り合い?」
「あの......、僕は、かつての職場の後輩なのですが、実は、彼女の事......」

わたしは、この時、この男性は彼女の事を好きなんだな、と分かりました。ただ、もう少し、様子を伺おうと思いました。
「そうですか。それで?」
「あの~、彼女、少しびっこをひいているようですが、どうしたのですか? それに、全く表情が無いように見えるのですが......」
「それには、訳があるのです。彼女は、何か月か前に交通事故で、大ケガをしてしまったのです。そして、さらに悪いことに、それ以前の記憶をすべて無くしてしまったのです」

この時、男性は、持っていた空の皿を床に落としてしまいました。それは、職員の人がすぐ片付けてくれたのですが、この男性、暫く黙りこくっていました。気になって、その男性が何か言うまで待っていたのですが、急に、何かを考え付いたという様子で、言いました。
「そうですか......。それで、この後、お二人の席に挨拶に伺ってもいいですか? 彼女に見せたいものもあるので」

わたしは、彼女はこの男性の事も覚えていないだろうと思っていました。それで、この男性の期待するような反応はないだろうけれど、もしかして、何かしら彼女に変化が起こったら、幸運だとも思いました。
「分かりました。それでは、あなたが来るまで、席で待っています」

暫くして、この男性は若い女性を一人連れてやって来ました。そして、依然ボーっとしている彼女に優しく言葉を掛けたのです。
「今谷さん、覚えていないかもしれないけれど、僕だよ。重衣津載だよ」
彼女は、特に反応しませんでした。すると、重衣さんと言う男性は、連れの女性が持っていた何かのケースを手に取り、蓋を開けました。中には、何か楽器が入っていました。

「今谷さん、僕は、ずっと、今谷さんのフルートを返そうと思って預かっていたんだ。今谷さんがこのホテルで演奏した後、忘れていった物だよ。僕は、大阪で別れてしまった後も、いつか必ず、また会える、そして、その時は、もう、絶対に離れたくないと思っていたんだよ」
驚いたことに、これを聞いた彼女は、急に立ち上がり、少女漫画の様に大きく目を見開いて、フルートとその男性を見比べ始めたのです。もう壊れかかっていた彼女の頭の中で何かが起こっている事は確かでした。わたしは、その大きな目に涙が浮かんでいる事に気が付きました。その時、重衣さんは、彼女の手を取りました。

ところが、彼女は、突然、重衣さんの連れの女性の方を向き、物凄く悲しそうな顔をして、その直後に、恐ろしい剣幕の表情に変わったのです。重衣さんは、びっくりして手を離して、連れの女性の方を見ました。そして、何かに気が付いたような顔をして言いました。
「今谷さん、紹介が遅れてしまった。これは、僕の妹だよ。似てるでしょ? 今日は、この、思い出のホテルに、可哀そうな思いをしてきた妹をねぎらいに来たんだ。でも、出かける前に、急に、フルートを持って行こうって言ったのは、この妹だよ」

彼女は、今度は、びっくりしたと言う様な表情をして、重衣さんと妹さんを見比べていました。そして、やっと納得したような顔をしました。それから、また大きく目を開き、重衣さんの事を見つめ、大粒の涙を流しながら、急に彼に抱き着いたのです。彼は、倒れそうになりながら、彼女を抱きしめました。

そばで様子を見ていた、赤ら顔のおじさんは、感激の大声を出しました。
「よかった、よかった! 乾杯!!!」
それを機に、食堂の至る所で拍手が巻き起こりました。
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