2.彼方(夜)

文字数 2,684文字

私は、またシェルターに戻った。丁度その頃、シェルターは改装工事の最中だった。予算の少ないシェルターとしては、経費を抑えるために、多くの作業は、利用者や、ボランティアが率先して行っていた。それで、私も何かと手伝う事になった。どうやら、この手の実作業と言うのは私の得意とする分野ではなかった。私は、言われた事がうまく出来ずに歯がゆい思いをすることが多かった。そんな時、私は彼の事を思い出した。彼は、営業の仕事は得意ではなかったから、こんな思いをしていたのだろう。同年輩の、特に女の私に、色々と指示されて、面白くない事もあったに違いない。だが、彼は文句一つ言わずに一生懸命に働いていた。随分と忍耐強いに違いない。

ところで、私には、一つ決心した事があった。今度は、瀬鷲さんに頼りっきりにならずに、自分の力で自分の道を切り開こう。自分で仕事を見つけてみようと言う事だ。それで、色々な情報を集めた。丁度その頃、大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパン、略してUSJが開園間近で、様々な職種で人員を募集していた。それで、私は、心機一転、大阪で新しい生活を始めようと考え始めた。まずは、幾つかの職種に応募した。幸い、暫くして連絡があり、面接に呼ばれた。

季節は巡るもの。そして、私にとって、春は待ち遠しい。柔らかな日差しが、私の冷えた心を暖めてくれる。私は張り切って夜行バスを予約し、大阪へ出かけた。それにしても、どうして、運命は私を彼に合わせるのだろう? なんと、私の隣の通路側の席にやって来た乗客は......、彼だった。

私は、この上なく嬉しかった。それに、今はどこにも逃げ道がない。大阪まで一晩、車中、彼とずっと一緒なんだ。私は、運命に逆らう事は出来ないと悟った。それに、彼は何のためらいもなく、喜んで私の隣に座っている。私の結婚している事や、過去は関係ないとでも言うように。彼は、私に逃げられてしまった時の彼の気持ちを語ってくれた。彼が、ほんとに私に会いたかったと言う事が実感できる。私も、久しぶりに彼と二人でいると、やはり、安心だ。私は、幸せだと感じた。それでも、当然、私は未だに、自分の事が話せない。彼の話を聞き、しきりに頷くのが精一杯だった。

暫くすると、バスは夜間モードに切り替わったのか、照明も暗くされてしまった。車内が静かになり、彼も話がしずらくなってしまったように思えた。その内、私は、シェルターの改装工事の手伝いの疲れがどっと出て、眠ってしまった。途中、夜中に目が覚めると、彼も寝ている。多分、彼も疲れているのだろう。私は、そっと、彼の手を握った。そして、また眠った。

朝、目が覚めると、彼はもう起きていた。私は、まだ彼の手を握っている。彼もしっかりと握っているので、私が寝てしまっても離れなかったようだ。これは現実だろうか? 私たち、ほんとにお互いに助け合っていける仲なのだろうか? 私は、自分の不幸な結婚の事を忘れかけていた。

私たちは、手を繋いだまま、バスを降りた。そして、何とはなしに、その辺を歩き、そして、喫茶店で朝食を取った。その時間、流石にカレーライスは無かった。それで、彼は、昼にカレーライスをご馳走すると約束してくれた。彼は、私の事をよく覚えている。嬉しかった。

その後、彼に誘われるまま、大阪城周辺を歩いた。その途中、彼が、言った。
「今谷さん、東京に戻って、僕のアパートに来ない? 僕のアパートは久我山病院のすぐ隣で救急車でうるさい所だけど。それに、今谷さんのフルートを預かっているんだ。それも、返したいし」
私は、嬉しかった。だが、彼の言っている事をよく考えようとも思った。その時、彼は付け足した。
「あぁ、今谷さんがどういう理由で大阪に来たのか分からないけど、来たばかりで、帰ろうと言うのは僕の勝手で、図々しいよね。兎に角、僕は、今谷さんに会えて物凄く嬉しいし、一緒にいたいから......」
彼の口から、「一緒にいたい」と言う言葉が出た。彼の事を考えれば、それは本当だろう。彼は、簡単に嘘をつくような人ではない。それでは、アパートに来ないかと言うのは、一緒に住まないかということだろうか? 私たち、まだ手を繋いだことしかないのに、一緒に住めるだろうか? 彼は、ほとんど口のきけないような、こんな私と生活できると思っているのだろうか?

それにしても、私は、USJの面接で大阪に来たことを話そうとしても、口は動かない。そうしているうちに、昼に近づいてきた。彼は友人の結婚披露宴に行かなくてはならないと言う事で、一緒にその会場へ向かった。会場の隣にはレストランがあったので、彼は、私を席に座らせて、カレーライスを注文してくれた。
「二時に終わるから、そうしたら、すぐに戻って来るから、必ず待っていてね!」
彼はそう言って、出かけた。

私は、彼が帰って来るのを楽しみに、そこで、カレーライスを食べ、その後は、コーヒーを飲んで待っていた。しかし、運命と言うのは私を彼に合わせてくれただけでは済まなかったようだ。よりにもよって、そのレストランに私の夫が現れた。私は、動転した。しかし、ここで見つかって、捕まってしまってはいけないと思い、こっそりとレストランを抜け出した。そして、隣の披露宴会場の入り口にあるソファーで彼を待つことにした。ところが、柔らかなソファーに座っているうちに、うとうとし始め、仕舞には眠ってしまった。やはり、疲れていたのだろう。

目が覚めると、もう披露宴は終わっていた。慌てて、レストランに戻ると、昼食時間も終わり、ガランとしている。彼は、私がソファーで寝ているとは思わずに素通りして、レストランに飛んで行ったはずだ。そこで、私が居ないことに気が付き、また私が逃げてしまったと思ったに違いない。私は、後悔してもしきれなかった。何と言う事をしでかしてしまったのだろう! 折角、彼と一緒に居られると思ったのに!!

完全に落ち込んでしまい、USJの面接には行かなかった。彼との約束を破ってしまった事が心残りでならなかった。仕方がなく、大阪の街を当てもなくうろついた。大阪に数日滞在して、アパートを探そうとさえ思っていたのに、今や、そう言う気持ちもなくなっていた。それでも、その夜は、予約をしておいた安宿に泊った。もう、次の朝になっても陽は昇らないのではないかとさえ思った。次の日は、小雨の中、意味もなく、大阪城へ行ってみた。彼と歩いた事を思い出す。そして、その日の夜行バスで、東京に帰った。だけど、それでも陽は昇る。バスを出ると、明るい朝日がやけに眩しかった。
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