文字数 3,328文字

あたしは、ずっと、あたふたしていた。そうしているうちに、彼女がトイレに入ったので、慌ててお兄ちゃんに聞いた。
「お兄ちゃん、彼女をここに泊めるつもり?」
「あぁ、何で?」
「何でって、あたしはどうなるの?」
「どうにもならないけど。どうして?」
「どうしてって、あたしが寝る場所がないじゃない!」
「えっ、そのまま、寝室で寝ていいよ。お前は、彼女と二人で、寝室を使えよ。俺は、台所でいいよ」
しかし、ほんとに良く分からないカップルだ。あれだけ熱々のくせに、夜は別々に寝る? まぁ、おかげで、あたしは追い出されずに済んだけど。

次の日の朝早くに、お兄ちゃんに起こされた。
「おい、ちょっと話がある。外に出てくれ」
それで、まだ、すやすや寝ている彼女を残して、あたしたちはアパートのドアの外に出た。
「あのな、ちょっと頼みがある。俺が会社に行っている間、彼女の面倒を見てくれないか? まだ、いろいろ障害が残っているから、何かと手伝ってあげないと。それから、これは、前にちょっと言ったかもしれないけど、彼女には何回も逃げられてしまった事がある。だから、また、そう言う事がないように注意して欲しいんだ」

あたしは、「いい加減にしろ!」と言いたかった。障害のある彼女の事を手伝うのはまだしろ、彼女に逃げられないように見張る?! 全く持って、おかしなカップルだ。
「お兄ちゃん、それじゃぁ、あたし、バイトに行けないんだけど」
「そうだな。それは悪いな。兎に角、頼むよ。俺は、もう彼女なしでは生きていけないんだから」
呆れるにもほどがある。とは言っても、居候の身だから大きなことは言えない。それで、ちょっくら取引をしてみようと思った。
「じゃ、お兄ちゃん。少しお金ちょうだい」
「参ったな。お前、いつの間にそんな猿知恵......」
それでも、仕方がないと言った顔で、お金をくれた。しめしめ。こうして、あたし達の変てこな共同生活が始まった。

それからは、毎日昼間を、彼女と二人で過ごす事になった。彼女は、相変わらずびっこをひいているので、動作はかなり遅い。そして、あたしが何を言おうが、まだ、一言もしゃべっていない。当然、あたしの言っている事は分かるので、取り敢えず、仕草とかで反応する。そうしているうちに、気が付いた。彼女の仕草、結構可愛い。あの、出来損ないのお兄ちゃんだったら、これだけでも参ってしまうんだろうなと思った。

それから、彼女だけ一人にしないように言われているので、買い物には一緒に来てもらう。この前、いつもとは違うスーパーに行った時、シャンタンスープの素が見つからずにうろうろしていると、急に、後ろの方で声が聞こえた。
「あのぉ、シャンタンスープの素はどこですか?」
「6番の列にあります」
あれっ? 他に誰が、シャンタンスープの素を探しているのだろう? 振り向くと、彼女がこっちを見てニッコリしている。その後ろを、店員さんが立ち去るところだった。

えっ?! もしかして、今のは、彼女と店員さんの会話? あたしは、驚いて、彼女の所へ行って、聞いた。
「今谷さん、今、店員さんと話した?」
彼女は、何も言わずに頷いた。あたしは、初めて、彼女の声を聞いた。少女漫画に似合うような、驚くほど可愛い声だった。お兄ちゃんが言っていたように、確かに、事務的な事は話せるんだ。やっと、それが分かった。それにしても、あの声を聞いたら、お兄ちゃんはいちころに違いない。あ~、あんなに、可愛い声をしていながら、個人的な話が出来ないとは! それは、あまりにむごい事だ。

夕食の時に、あたしがその事を話すと、お兄ちゃんと彼女は、二人とも照れ臭そうに見つめ合っていた。そして、お兄ちゃんが言った。
「そうだろう? あの声で営業をやっていたもんだから、仕事はどんどん入ってきたよ。それで、この僕は、いつも、今谷さんについて行くだけで良かった。会社でも、今谷さんの声は大評判だったけど、みんな彼女に振られたと言っていたよ」
あたしは、不思議に思った。
「それじゃ、今谷さん、どうして、よりにもよって、この出来損ないのお兄ちゃんの事を好きになったの?」
「お前! 出来損ないとは何だ!! 失礼にもほどがある。ねぇ、今谷さん、僕だって少しはいいとこあるんでしょ?」
すると、今谷さんは顔を真っ赤にして、頷いた。あたしは、また呆れた。あ~ぁ、恋は盲目ってやつかな? あたしも早く彼氏が欲しい!

次の休みの日に、瀬鷲さんが彼女の荷物を持ってきた。その荷物と言うのは、ボストンバッグ一つだった。これだけ?! まぁ、もともとホームレスシェルターに居たり、居場所を転々としていた人だ。これも、仕方のないことなのだろう。でも、もし、こんな数少ない服で営業なんてやっていたら、ひんしゅくを買うに決まっている。そうすると、そんな事に無頓着なお兄ちゃんだけが本気になったのかな?

ずっと、昼の間、彼女と二人で過ごすようになって、段々と彼女の事が分かってきた。なんだか、あたしも彼女に情が湧いてきた。それは、お兄ちゃんの彼女を奪い取りたいと言うんじゃなくて、彼女の事を、あたしの、出来損ないのお姉ちゃんの様に思ってきたから。長いこと出来損ないのお兄ちゃんを相手にしていたので、こんなお姉ちゃんが一人増えても大したことはない。それに、彼女は、昔のお兄ちゃんの様に、あたしをいじめたりしない。とても、優しい。それか、ある意味では、妹みたいだ。しっかりと面倒を見てあげないと、いけないような気がする。どっちにしても、彼女と一緒だと、一人の時より、よっぽど楽しい。

あたしは、彼女の事がもっと知りたかったし、彼女から、お兄ちゃんと彼女の間の事も聞き出したかった。それで、よく、質問攻めにしてしまったのだけど。当然、彼女は、言葉では答えてくれない。身振りで反応するだけだ。それで、段々と、あたしでも、彼女の反応が分かるようにはなってきた。お兄ちゃんが言っていた通りだ。それでも、どうしても、細かい事が聞けない。

段々と親しくなってくると、「今谷さん」と呼んでいる事が他人行儀に感じてきた。それで、聞いてみた。
「ねぇ、今谷さん。今谷さんの事、『かなた』さんって呼んでいい?」
彼女は、嬉しそうに頷いた。
「じゃぁ、かなたさん。どんな漢字書くの?」
すると、彼女は、そこらへんにあった紙に、書き始めた。その瞬間、あたしは、彼女は筆談で返答できるに違いないと思った。ただ、彼女、自分の名前を書くのにも随分と時間が掛かった。それに、『奏多』と書かれているのは分かるのだが、ぐにゃぐにゃで、かなり読みずらい。やはり、筆談では、拉致が明かないのか。ただ、以前は、営業をやっていたのだから、これは、交通事故の後遺症に違いない。

その次に思いついたのは、電話の漢字変換だ。そうだ。あたしが電話を買い替えてから使ってない古い電話がある。それを使って、指で入力すれば、複雑な漢字を書かなくて済む。それで、あたしの古い電話を渡してみた。案の定、話すように速くはないが、彼女が言葉で返答出来るようになった!

お兄ちゃんが仕事から帰ってきてすぐに、その事を話すと、あっけに取られているような顔をした。
「お前......、天才だな! 俺は、なんでそんな簡単な事に気が付かなかったんだろう」
「お兄ちゃん、それ、矛盾してるよ。え~、もし、そんなに簡単な事だったら、それに気が付かない人は、よっぽどの間抜けだよね」
お兄ちゃんは必死に反撃しようとしたが、無駄な抵抗だった。この様子を見て、彼女が、微笑みながら電話に入力した。
『二人とも可愛い』
あたし達は、皆大喜びで笑った。

あたしが、彼女の事を「奏多さん」と呼ぶようになると、お兄ちゃんもそれにならった。彼女も、お兄ちゃんの事を、『津載さん』と入力するようになった。それから、直に、二人共、「さん」も付けないようになった。そう言ったわけで、あたし達の、家族の様な、何とも不思議な、共同生活は、それなりにうまくいっていた。そうそう、お兄ちゃんは、やっぱり、台所の床が固いと言って、エアマットを買ってきて使うようになった。あたしはと言えば、寒い夜は、そっと、彼女に寄り添って寝たりしてみた。
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