文字数 1,910文字

四人が日本に戻る前日、みんなで、スタンレーパークを訪れた。海辺で夕暮れを眺めている時、お姉ちゃんが、ぼそっと、「海がきこえる」と言った。それは、ボクがお姉ちゃんと再会して初めて聞く声だった。あぁ! きれいな声だ。懐かしい! それなのに、自分の事を話せなくなってしまって、なんと惨いことだ。

その後、お姉ちゃんは、津載さんに寄り添っていたが、急に口を動かし始めた。
「津載、ありがとう」
「ん~?」
「旅の間、ずうっと、見守ってくれて。私、いろいろな事を必死に思い出そうとしたんだけど、出来なかった。残念だけど、私の頭、完全に壊れちゃってるみたい」
「そうか......。確かに、それは、残念だけど......、でも......」
「津載......」
「ん~? んー!!! 奏多、いつの間にか、喋ってるじゃない!」
「そうなの。思い出すことは出来なかったんだけど、何かを吹っ切れた気がするの。私、過去の事や、自分の事を話せないようにしていた何かを吹き飛ばすことが出来たみたいなのよ」

これを聞いて、みんな、大喜びした。それで、お姉ちゃんが、みんなに言った。
「みんな、ほんとにありがとう。日本に帰ったら、お礼に、私が何かお料理するからね!」
ボクも、何かが吹っ切れたような気がした。無くなってしまったお姉ちゃんの一部が戻ってきたような気がした。それで、口を開いた。
「あれっ? お姉ちゃんは、プリンセスで、料理は全くできないと思っていたけど、それもすっかり忘れちゃったの? それとも、最近、料理覚えた?」
今度は、逸ちゃんと言う人が口を挟んだ。
「臨夢君、言っちゃ悪いけど、姉さん、未だに、料理は全然なんだけど」

四人が日本に戻る前の晩、龍君と逸ちゃんが、ボクにホテルのピアノを弾いてみて欲しいと言った。その時、二人から、電話に録音されていたスタジオジブリのアニメ、『海がきこえる』の主題歌を聞かせてもらい、それも弾いて欲しいと言うリクエストも受けた。ボクは、曲を聞けば、大体、似たようには弾けるので、そうすると約束した。

前うちにあったグランドピアノよりは小さいけど、それでも、久しぶりのスタインウェイだ。ボクは、まず、お姉ちゃんがトリオで演奏していたような曲をいくつか弾いてみた。お姉ちゃんは、曲は覚えているようだが、実際にトリオで演奏していた事は思い出せないようだった。ボクは、最後に、『海がきこえる』を弾いてみた。その時、逸ちゃんが、どこからかフルートを取り出してきて、お姉ちゃんの前に置いた。お姉ちゃんは、黙ってフルートを手に取って、吹き始めた。流石に、お姉ちゃん、一流の演奏だった。ボクは、訳は分からなかったが、涙が止まらなかった。演奏が終わると、津載さんが、お姉ちゃんを労わるように椅子に座らせた。

龍君はもちろん、ボク達は皆、最後まで、お姉ちゃんが何かを思い出してくれたことを期待していた。残念ながら、それは起こらなかった。それでも、お姉ちゃんは、その時の気持ちをみんなに説明してくれた。
「みんな、ありがとう。でも、ごめん。やっぱり、どうしても、バンクーバーの事は思い出せないわ。それでも、最高の新婚旅行をさせてくれて、ほんとに嬉しい。それに、臨夢が、ピアノを弾けるなんて、知らなかった。え~と、忘れてしまったのね、私」

この時、逸ちゃんが口を挟んだ。
「姉さんの場合は、しかたないよね。だけど、姉さんの夫ときたら、可愛い妹がフルートを吹ける事を全く覚えていなかったんだからね!」
今度は、津載さんが言い訳をした。
「あ~、すっかり忘れていたよ。お前のフルートの事じゃなくて......、実は俺も記憶喪失だったって言う事を! 夫婦そろって、という事だな、これは」

ボクは、津載さんとお姉ちゃんの新婚旅行と言うのは随分と変な旅だと思った。大体、新婚の二人に、妹夫婦だか、婚約者同士だかが付いてくると言うのは、おかしな話だ。それでも、この四人にとって、この旅が何か意味のあるものになったことには違いない。四人が日本に発つ日、龍君が、ボクに、日本に来ないかと誘ってくれた。龍君の家は、空き部屋がいくつもあるらしい。ボクは、絶対に行きたいと思った。今となっては、たった一人の家族、お姉ちゃんのそばに居たい。

それから、これは後から聞いた話だが、帰りの飛行機の中で、津載さんとお姉ちゃんは、何回も、何回も窓のブラインドを開けて、バンクーバーから成田まで、ずっと太陽が沈まない事を確認して、しきりに感動していたらしい。二人共、陽が落ちるのが辛い時期があったそうだ。そんな事は、ボクには、あまり重要には思えないけど、なんだか、おあつらえ向きの夫婦なのかもしれない。
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