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さて、こうなると、最も手っ取り早いのは、実際にバンクーバーに行く事だ。行けば、両親に会えるだろう。そうすれば、何かしら彼女を刺激するものがあるだろうし、何かしら思い出せるのではないか。それにしても、肝心なのは、彼女の心の準備だ。彼女は、過去を思い出したいだろうか、あるいは、その逆だろうか? 例の心理学科中退の友人の言う事では、やはり、たとえ辛くても、事実を知った方が、精神的な痛手からの回復に良いらしい。

そして、もし、彼女が、津載さんと結婚して、簡単には打ち砕かれないような安心感を持てば、どんな辛い事でも打ち向かって行けるのではないか。それで、逸ちゃんに、二人の結婚の可能性を聞いてみた。返事は、「あたしには、良く分からない」だった。それで、津載さんに直接聞いてもらうことにした。

「お兄ちゃん、奏多さんが、『重衣奏多になりたい』って書いた時の事覚えてる?」
「あぁ」
「お兄ちゃんは、どう思うの?」
「......」
「お兄ちゃん、結婚したくないの?」
「したくない訳じゃない。奏多なしでは、生きられない」
「じゃ、どうして? 責任感が怖いの?」
「そうではないと思う」
「じゃ、子供とか家庭とかの事を考えるのが怖いの?」
「ん~、そう言う訳でもないと思う」
「じゃ、どうしてなの?」
「......」

それから暫くして、逸ちゃんとぼくは、自分たちの婚約披露パーティーをした。レストランを予約して、二人のごく親しい友人だけを集めた。当然、津載さんと彼女も呼んだ。実は、このパーティー、自分たちの為と言うより、二人に圧力をかける為と言う隠れた目的があった。

パーティーの途中に、どこからともなく、「次は誰?」と言う声が上がる。ぼくが横目で見ていると、彼女は津載さんの腕を掴んで、意味ありげな視線を投げかけている。津載さんもそれは分かっているようだった。だが、その会場では何事も起こりそうもなかった。

パーティーの後、遅くなったし、次の日は休みだったので、津載さんと彼女に、近くにある、ぼくの家に泊って行かないかと誘ってみた。二人は、すんなりと了解して、逸ちゃんとぼくの後をゆっくりと歩いてついてきた。途中、二人が見えなくなったので、どうしたのかなと思ったら、道の角の所で、抱き合ってキスをしている。あまりに、長いことそのままなので、少し痺れを切らせて、声を上げた。
「ねぇ、二人共。早くおいでよ~、おいてくよ~」

そうしたら、二人は、やっと抱き合うのを止めて、再び、ゆっくりと歩き出し、ぼく達に追いついた。そうしたら、彼女が泣いている。でも、全く悲しそうではなかった。どうしたのかと思ったら、津載さんが口を開いた。
「やっと、プロポーズしたよ。僕は、奏多の事は、初めて見た時から好きだった。どうして、こんなに時間が掛かったんだろう。随分いろいろな事があったような気がする。でも、もちろん、僕には奏多しかいないよ」
彼女は津載さんに抱き着いた。それを見た逸ちゃんは、物凄く小さな声で呟いた。
「ほれ見た事か。温泉ホテルで、彼女が、お兄ちゃんに抱き着いた時から、こうなる事は分かってたんだから。全く、世話の焼ける二人だ」

うちについて、ぼく達四人は、もう一杯やった。その時から、ぼくは、二人の事を、「兄さん」、「姉さん」と呼ぶようになった。兄さんも、姉さんも、とても幸せそうだった。そして、二人は、すぐに結婚すると言い、実際に、兄さんの現住所に、二人の新しい戸籍を作った。姉さんは、希望通り、重衣奏多になった訳だ。

それから、暫く経って、逸ちゃんとぼくは、姉さんの状態が安定していると判断した。それで、四人揃った時に、切り出してみた。
「兄さん、姉さん、ちょっと、言いたいことがあるんだけど。二人に新婚旅行をプレゼントしたいんだ。実は、それには、訳もあって。もし、嫌だったら、決して無理は言わないから」
兄さんと姉さんは少し怪訝な顔をしている。
「実は、姉さんが、カナダのバンクーバーに住んでいたと言う事が分かったんだ。もし、姉さんが、覚えていない過去に立ち向かえる心の準備があるんだったら、バンクーバーに行って欲しいんだ。そして、新婚旅行には、変だけど、逸ちゃんとぼくも一緒について行きたいんだけど......」
二人は、驚きが隠せない様子だった。たった今ぼくの言った事を消化するのにも時間が必要の様だった。

姉さんは、しきりに、兄さんの方を向いて、様子を伺っている。兄さんはどうしていいか分からないと言う表情だ。その内に、姉さんが電話に入力した。
『考えていい?』
ぼくは答えた。
「勿論。兄さんと、じっくり相談してね」

それから、一か月くらい後、兄さんと姉さんが一緒にうちに来た。そして、逸ちゃんとぼくの前に何かを差し出した。二人のパスポートだった。
兄さんが言い出した。
「龍君、新婚旅行の提案、有難く受けるよ。奏多と話したんだけど、過去に立ち向かう準備が出来たようだ。そして、僕が全力で手助けするから。多分、奏多にとって辛い事もあると思う。でも、嬉しいことだってあるかもしれない。それで、二人で立ち向かう事にしたよ」
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