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さて、ぼくが自分で勝手に決めた次のプロジェクトは、彼女の過去を探る事だ。そのためには、彼女の本当の姓とか、何か手掛かりが必要だ。

最初に目を付けた事は、彼女の英語が非常に流暢だと言う事だ。それで、言語学科中退の女性を動員して、奏多さんの発音に何らかの特徴があるか、調べてもらう事にした。ただ、彼女に私事を聞くと黙ってしまうので、英語の文法を教えて欲しい人が居るという設定にした。調査の結果はこうだった。
「まず、彼女の英語、イギリスやオーストラリアの発音じゃありませんね。それに、彼女の英語には、全く日本語訛りがありません。そのためには、遅くとも10歳くらい以前に、英語を中心に使うような生活を始めて、少なくとも、中学か、高校の頃までは、その状態を持続する必要があります。例えば、少なくとも片親が、英語のネイティブ・スピーカーだとか、英語圏で現地の学校に通うとか、日本に居たとすれば、アメリカン・スクールに行っていたとかの状況が考えられます。ただし、彼女は、アメリカン・スクールに行っていたとは思えません」

「えっ、どうして?」
「それは、彼女の発音が、確実にカナダのものだからです。カナダとアメリカの発音は、ほぼ同じと思われるくらい近いのですが、無声子音の直前の『アイ』とか『アウ』とか言う時、アメリカ発音より、曖昧な感じになのです。そして、彼女、アルファベットの最後の文字を、イギリス人の様に、『ゼッドゥ』と言いましたよね。アメリカ人は、100%、『ズィー』と言います。この二点で、間違いありません。ただ、カナダの英語の場合、東海岸も西海岸も、それほど違いがありません。それで、わたしには、カナダのどこと言う事は分かりません」

ぼくは得意になって逸ちゃんに報告した。
「逸ちゃん、彼女は、どうやら、カナダ育ちだと思う」
「えー?! そんなことが分かったの! 凄い!!」

次に、心理学科中退の友人に協力してもらった。彼女に、カナダの色々な写真を見せて、どういう反応をするか調べてもらうと言う計画だ。そして、この時は、知り合いのアマチュア写真家が懸賞に応募する作品を選ぶのに、新鮮な眼で手伝ってもらいたいと言う事にした。彼の見解はこうだった。
「悪いけど、はっきりしないな。バンクーバー、モントリオール、トロント、どの写真を見せても、目立つ反応が無かったし、田舎や雪に対する反応もない」
「そうか~......」
「強いて言えば、彼女、あそこにかかっている写真が気になっていたようだけど......」
彼は、喫茶店の壁にかかっている大きな夕焼けの写真を指さした。
「えっ? そうか。う~ん......。それじゃ、どちらかと言えば、バンクーバーかな。西海岸で、夕焼けが良く見えるはずだ」

ぼくは、もう狙いを定めた。
「逸ちゃん、見当がついたよ。多分、バンクーバーだ。彼女は、10歳以前にバンクーバーに移り、そこで育ったと思う」
「ほんとう?! 彼女、真実を知りたいかな? 真実に向かう度胸があるかな?」

「それから、もし、バンクーバー育ちだとしたら、確実にパスポートを持っていたはずだ。ちょっと、外務省に問い合わせてみよう。だけど、彼女自身が電話して、自分についての会話をすると言う事は考えられないから、逸ちゃん、彼女の身代わりで電話してくれる?」
「えっ?! このあたしが? お役所に嘘をつけと言うの?」
「大丈夫。うまくいくから。ここにぼくが下書きをするから、その通りに言えばいい。スピーカーホンで、ぼくも聞いているから。もし、予定と違うことがあったら、付け足すよ」
「流石に、中退するだけの意味があるわ。こんな調子じゃ、到底、法学部を卒業できる訳ないよね」

逸ちゃんが電話をするとすぐに応答があった。
「外務省旅券課の真締です」
「あの~、あたし、え~と、私、名前は奏多と言うのですが、記憶喪失で、姓を覚えていなくて困っているんです。以前、カナダに居たという情報があるので、パスポートを持っていたはずなのですが、ちょっと、コンピュータで調べてもらえませんでしょうか? 漢字は、音楽演奏の『奏』に多い少ないの『多』と書きます」
「あの~、失礼ですが、そう言う依頼にはお答えしかねますが」
「そんな、堅苦しい事をおっしゃらずに、お願いします」
「あの、規則なので」

こうなる事は十分予想出来たので、準備してあった次の手に出た。
「あなたは記憶喪失になったことがありますか?」
「えっ? ありませんけど。なぜですか?」
「あなたは、記憶喪失になった者の気持ちが分かりますか?」
「は~? それは、分かりませんけど」
「どんなに辛いか分かりますか?」
「いやぁー、こちらは外務省なので、そう言う事は分かりません」
「生きていけないくらい辛いのです」
「えっ? そんなに?」
「そうです。もし、私の名前を教えて頂けないんだったら、新聞社に、『外務省の真締さんが必要な情報を教えてくれなかったから、もう生きて行く気力がなくなりました』って訴えてもいいですか?」
「えー?! 死なないでください。ちょっと待っていてください」

その人は慌てて、上司の所にでも行ったと思われる。電話の相手が、もう少し年配と思われる人に変わった。
「え~と、奏多さんですね。お年は、お幾つですか?」
「26歳くらいのはずです」
「今現在、どうやって生活をしているのですか?」
「吉祥寺の猫カフェで働いています。確かめに来てもいいですよ。それに、私の昔のパスポートの写真で、本人確認が出来るはずです。髪型は少し違うかもしれませんが」
「今、コンピュータで調べたところ、該当する記録が見つかりました。あなたの姓は出雲です。出口の『出』に空の『雲』と書きます。生年月日は......」
「どうもありがとうございます。私は、外務省旅券課の人々に命を救われました。あっ、本籍地は?」
「杉並区阿佐ヶ谷西3の28です。それから、パスポートはもう失効していますが、おっしゃる通り、カナダの......、バンクーバーで発行されていますね。どうぞ、お大事に」

彼女は、「出雲奏多」だ。それに、本籍地が分かった。そして、やはり、バンクーバーだった。ぼくは早速、戸籍謄本と附表を取り寄せた。これで、一気に前進出来ると思った。逸ちゃんとぼくは、彼女に、戸籍上の姓と本籍地の事は伝えた。将来、結婚したり、パスポートを取ったりするときに必要になるし。

ぼくが最初に注目したのは、戸籍の附票だった。今までの住所が記録されていると思ったからだ。ところが、肝心のカナダ在留の情報はなかった。海外でパスポートを取ったり、更新したりするときは、在留届けが絶対に必要なので、在留届を出していないはずはない。すると、残念ながら、その情報は、戸籍の附票には記載されないと言う事かもしれない。

ただ、附票の最後に、広島の住所が書いてあった。これは、もう何年か前で、彼女が大学に行くような年頃だ。すると、彼女は、この時点で、広島の大学に進んだ可能性がある。ぼくには、姫路に従妹がいる。広島までは、新幹線だったら、たったの一時間ほどだろう。彼女に行って調べてもらおう。

さらに、両親の戸籍から分かったことは、両親の出生と婚姻の記録だ。なんと、両親共に広島で生まれている。その後、二人は、結婚して、杉並区阿佐ヶ谷西に新戸籍を作った訳だ。そして、おそらく、まだバンクーバーに居るだろう。今頃、どうしているだろうか? 彼女の事をどこまで知っているのだろうか? ついでに、ぼくは、実際に本籍地に行ってみた。現在、そこには、児童養護施設がある。調べてみると、その施設は、関東大震災の後に出来た古い施設なので、彼女の両親がここを本籍にした時には、もう存在していた事になる。どういう意味があるのだろう?
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