文字数 2,035文字

あたしのお兄ちゃんと言うのは、全く呆れた人だ。あたしが六年間ブラバンでフルートを吹いていた事さえ覚えていない。まぁ、これは、今に始まった事ではないから、仕方がないか。でも、今回、お兄ちゃんのアパートを突然訪ねて来たら、何だか、少し様子がおかしい。それは、お兄ちゃんが妙に優しくなっていたから。それがたまたま、春だったせいか。あたしは、季節に疎いし、季節で気分が変わると言うタイプではないので、良く分からないけど。

あたしが小学校に入った時以降、進学や進級すると、かならず聞かれた事がある。「君は、重衣津載の妹か?」と言う質問だ。当然、「はい」と答えるしかない。すると、先生の反応と言うのは、いつも同じだった。諦めの表情の後に、ため息をつく。それで、あたしは、お兄ちゃんが先生たちにどの様に思われていたか、簡単に察しがついた。

授業中、あたしが指されて答えられないと、先生はいかにも納得したような顔をする。逆に、たまに正解を言おうものなら、天地が逆さになったような驚きの表情を見せる。兎に角、出来の悪い兄を持って助かることは、誰もあたしの事を全く期待しない事だ。それで、あたしは、随分と気軽な性格になったと思う。

さて、お兄ちゃんのアパートには夜行バスで来たので、着いたのは早朝だった。ノックをしても、返事がない。あのお兄ちゃんの事だから、夜通し、遊び歩いているのかな、とか思った。それでも、あたしは、他に行く当てもなかったので、仕方がなく、ドアの前でうずくまっていた。

そうしたら、階段を上る音がして、その後、ものすごい勢いで足音が聞こえた。あたしは、何が何だか分からないうちに立たされた。その瞬間に、「今谷さん!」と叫んだのは、お兄ちゃんだった。今谷さん? 誰だろう? お兄ちゃんの彼女? そんなはずないよね。この、出来損ないのお兄ちゃんに彼女が居るなんて、考えられない!

そして、お兄ちゃんは、あたしが今谷さんではないと分かると、怒り出した。全くもって、不届きな兄だ。それでも、諦めたようで、あたしをアパートに入れると、今度は、朝食を用意してくれた。その後、その日は、仕事を休んで、あたしと一緒に居ると言い出した。後で、あたしが、暫くアパートに滞在していいかと聞くと、全く抵抗せずに受け入れてくれた。それは、お兄ちゃんにしてみれば、少し、不気味なくらいだった。でも、これで、あたしも暫くの東京暮らしが出来ることになり、一応、あたしの目的は達成した。

その、不気味なお兄ちゃんと言うのは、驚いた事に、ずっと続いた。初めは、あたしに寝室を使わせてくれ、お兄ちゃんは、台所で寝た。ところが、数日たつと、板の間が固いと言って、あたしの横で寝ると言い出した。あたしは、泊まらせてもらっている都合、文句も言えず、お兄ちゃんとはなるべく離れて寝た。休みの日には、あたしを、何か所か、連れて行ってくれた。それで、あたしも、買い物、食事の用意、掃除と手伝う事にした。それでも時間はあるので、バイトでもしよっと。

さて、お兄ちゃんが最初に連れて行ってくれた所は、浦和だった。いくらでも観光地のある東京で、よりによって、何で浦和に行ったのか? まだ、昼時にもならないのに、駅前の小さな店で餃子をご馳走してくれた。お兄ちゃんは、餃子よりも、ガラス越しに見える所で餃子を作っている女性に興味があるみたいで、注意深くずうーっと観ていた。ほんとに、分からない人だ。その後、どこに連れて行ってくれるのかと思ったら、近くにあった映画館だった。映画館なんて、どこにでもあるのに、なんで、わざわざ浦和?

次に連れて行ってくれた所は、横浜のみなとみらいだった。こちらは、れっきとした観光地なので、文句なし。ワールドポーターズで、バーンゴルフをして、そばの遊園地で少し遊んで、その後、赤レンガの方まで歩いた。そこで、食事かな~と期待していると、お兄ちゃんは何かに囚われたように、ボーっとしている。外国人観光客の一行でも来ようものなら、急に注意を払う。浦和でも、ここでも、何かに取り付かれているんだ。

そして、次は、なんと、水上の温泉ホテルに連れて行ってくれると言い出した。あたしは、いつになるか楽しみに待っていたが、これは、なかなか実現しなかった。そのうち、夏のボーナスが出たらと言い出した。それで、その後は、近所で買い物をする程度のちょっとした外出ばかりだった。

それでも、あたしは嬉しかった。それまで、お兄ちゃんは、ほとんどあたしの事を相手にしてくれた事がなかったから。あたしは、いつも、どうして、お兄ちゃんはあたしの事を無視するのだろうと思ってきた。時には、付きまとおうとするあたしを邪魔者にし、随分と邪険に扱ってもきた。

それでも、あたしはお兄ちゃんが大好きだ。例え、どんなに出来損ないでも、どんなに邪険にされても、二人っきりの兄妹だもん。そして、こうやって、やっと、あたしと一緒に時間を使ってくれて、嬉しくない訳がない。
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