文字数 3,134文字

ぼくは何回か乗ったことがあるが、逸ちゃんと兄さんは初めての飛行機、姉さんも記憶喪失になってからは初めてと言う訳で、三人は、結構、はしゃいでいた。ぼくは、別の事で、ウキウキしていた。バンクーバーにさえ行けば、姉さんは両親に会える。そうしたら、姉さんが何かしらに気が付いて、記憶を少しでも取り戻せるはずだ。

バンクーバーに降り立ち、ホテルにチェックインして、その日は、ホテルでゆっくりする事にした。ぼくが、みんなを部屋まで連れて行き、ドアを開けた時、兄さんが不審そうな顔をしている。
「兄さんどうしたの?」
「龍君、これは、僕たちの新婚旅行だよね?」
「そうだよ。それで?」
「それで、四人で、一部屋と言うのは、問題じゃないかな?」
ぼくは、ぷっと吹き出しそうになったのをこらえてから、言った。
「兄さん、中を見てご覧」
兄さんは、一番最初に中に入って、様子を伺っていた。そして、おもむろに言った。
「なんだよ。驚かさないでくれよ。これなら、これと初めから言ってくれればいいのに」
「じゃ、今言うよ。これは、スイートだよ。寝室は、二つとも個室だから、いいでしょ?」

次の日、ぼく達は、総領事館に向かった。外務省の一部でお役所臭いと想像していたのだが、ここは、日本の機関よりも気さくで、親身だと言う気がした。ぼくが事情をすべて説明して、姉さんのパスポートと戸籍謄本を差し出して、総領事館にある在留届と照らし合わせてもらった。すぐに、姉さんの家族の在留届が見つかった。やったー! 計画通りだ。それに、両親と......、弟も居る! そこの職員が言った。
「ご両親と弟さん、皆さん、パスポートが失効していますから、伝えておいてください」
早速、必要な情報を記録して、ぼくがレンタカーを運転して、在留届にある住所に向かった。

バンクーバーの市内から、30分程の所。郊外の丘の中腹にあって、バンクーバー湾を西に臨む、三階建ての家。ぼくの家は、東京では豪邸とみなされるが、この家は、それより何倍も大きいと思った。姉さんはここで育ったんだ。ぼくは感無量だった。ところが、姉さんはけろっとしている。この家には、全く刺激がないのだろうか? 本当のところは分からないが、「あら、随分大きな家ね」とでもいった感じだ。ぼくは興奮してドアベルを鳴らした。待ちに待った、両親との再会だ! 

すると、中から、出てきたのは、白人の女性だった。予想外の展開だったので、その人にしどろもどろで事情を説明して、家の事を尋ねた。その女性が言うには、五年ほど前に、この家を買ったらしい。ぼくが前の持ち主、住人の事を聞くと、何も知らないと答えた。すべて、不動産屋が処理したので、全く会っていないと言うのだ。それでは、不動産屋を紹介してもらおうとしたら、数年前に心臓疾患で亡くなり、会社も無くなっているらしい。

ぼくは、ひどくがっかりした。ここに来れば、すべてが解決すると思っていたからだ。逆に、姉さんには全くがっかりした様子が見えない。もう、完全に忘れ切っているようだった。

仕方なく、その後は、ぼくの考え付く範囲で、バンクーバーの至る所に行ってみた。何かしら、姉さんを刺激するものはないだろうか? 残念ながら、反応は皆無と言わざるを得なかった。姉さんは、どこに行っても、まるで初めての様に振っていた。それでも、兄さんと姉さんは、純粋に新婚旅行を満喫しているようで、行くとこ行くとこ、凄く楽しそうにしている。

その間に、ぼくは他の手も使った。ひとつは、新聞に尋ね人の広告を出すことだ。姉さんに手伝ってもらって作った文面を新聞社に持って行った。
“尋ね人:Kanata Itsumoの両親と弟... ”
残念ながら、これを見て連絡してきた人はいなかった。

ぼくの期待とは裏腹に、まったく進展がないまま、予定の一週間が過ぎようとしていた。最後の晩、ぼく達はバンクーバー・ルックアウトの360度回転レストランに行った。この展望レストランは、客席が、一時間かけて360度、一周するのだ。丁度、西向きになった時、太平洋に沈みつつある夕焼けがきれいだった。その時、姉さんがボソッと、「海......」と言ったように聞こえた。ただ、それ以上、表情とか、特に他に変わったことはなかった。

食事が済むと、ぼく達は夕陽を後に席を立った。ぼくは、自分に言い聞かせた。これは、兄さん、姉さんの新婚旅行だ、二人が、二人の時間を楽しんでくれればいいんだ。ぼくが勝手に期待していた事が起こらなくてもいいんだ。丁度その時、アジア系の若いウェイターが近寄ってきて、姉さんの事をしげしげと見ている。そして、日本語で声を掛けてきた。
「お姉ちゃん?」

姉さんは、ウェイターの顔をちらっと見たが、知らん顔をしている。ぼくは、ウェイターの名札を見た。“Noam”と書いてあったので、おかしいなとは思ったが、在留届によれば、確かに、弟が居るはずだ。それで、ぼくは興奮して、そのウェイターに言った。
「失礼ですが、出雲臨夢さん?!」
ウェイターは、急にぼくの方を向いて、確信したようだった。
「お姉ちゃんですね! 出雲奏多ですね!!」
ぼくは思いっきり頷いた。兄さんと逸ちゃんは大驚き。ところが、姉さんは、何も分かっていないような顔だ。ぼくは、煮え切らない思いだった。

ぼくは臨夢さんに言った。
「ぼく達は一週間、奏多さんの両親とそして、弟さんの事を探していました。奏多さんの反応がないのは記憶喪失のせいなんです。それに、言語障害もあります。ぼく達は、明日、日本に戻る予定でした。でも、航空券は変更できます。仕事が終わったら、ぼく達のホテルに来れますか?」
「ボスに話して、今すぐ一緒に行きます!!!」

こうして、姉さんと弟の臨夢君は再会した。ホテルに向かう車の中、弟さんは、泣きっぱなしだった。五年以上だと言った。対照的に、姉さんは、まだピンとこないでいる様子だった。

ホテルに着いて、ラウンジで腰を下ろしたのだが、ぼく達は、どこから始めたら良いのか、戸惑っていた。一番初めに口を開いたのは、臨夢君だった。
「お姉ちゃん、良かった。ほんとに良かった。生きていてくれて。例え、記憶喪失になってしまっても。ボクは、もう、お姉ちゃんに会えないかと思っていたから。お姉ちゃんが、今や、ボクのただ一人の家族だから」
これを聞いて、ぼくは嫌な予感がした。
「お姉ちゃん、父さんと母さんは、ずっと行方不明なんだ」

この時、兄さん、逸ちゃん、そして、ぼくは完全な絶望感に浸った。姉さんは、まだ分かっていない......、と思っていたら、急に大声で泣き出した。思い出したのかどうかは分からないが、兎に角、絶望感が襲ったことは間違いない。臨夢君は姉さんに抱き着いた。兄さんが、二人をそっと労わる。

後で、兄さんから聞いた話では、やはり、姉さんの記憶は戻らなかったらしい。それでも、臨夢君、両親、そして、過去の自分があまりに哀れに思えて泣いてしまったのだと言う。やっぱり、良いことだけでは終わらなかった。それでも、姉さんが事実に近づいた事には間違いない。事実を知ることは、心の癒しには、必要不可欠な事だ。

その夜、ぼくは、航空券を三日先に変更した。次の三日間、ぼく達はみな一緒に過ごした。ただし、朝に一回だけ、まだ姉さんが寝ている時に、臨夢君とぼくは、自分たちの知っている事の詳細を分かち合った。それは、どう考えても、あまりに無残な話だった。そして、ぼく達が帰る日、ぼくは、臨夢君に言った。
「臨夢君、日本に来ないか? ぼくのうちに好きなだけ居ていいんだよ。そうしたら、姉さんのすぐそばに居られるよ。ここに、ぼくの電話と住所とが書いてある。絶対に連絡してくれよ」
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