文字数 3,884文字

彼女が電話に入力して返答するようになると、彼女は、あたしに、少しずつ、今まで知らなかった事を教えてくれた。お兄ちゃんが彼女の夫に殴られた時の事、失踪中にお兄ちゃんと出会って嬉しかったこと、それでも自分が恥ずかしくて、また失踪してしまった事、英語のガイドの仕事は「もぐり」だった事、大阪でレストランから出たのは偶然に現れた暴力夫から逃れるためだった事、その後、居眠りをしてお兄ちゃんが披露宴会場から出てくるのを見逃してしまった事、お兄ちゃんのアパートを訪れようとした時にあたしをお兄ちゃんのガールフレンドと思ってしまった事、等々。

結局、お兄ちゃんより、あたしの方が彼女と過ごす時間が長くなって、よっぽど彼女の事を知るよう事になった。あたしが、彼女と「会話」をしている限りでは、彼女のお兄ちゃんに対する気持ちは疑いない。もう、以前の様にお兄ちゃんから逃げたりはしないと思う。

この、変てこな共同生活を続けて思う事は、あの二人の間だ。どうして、ああやって、離れて寝ていて平気なんだろう? プラトニック・ラブと言うやつかな? そんなはずはない。まず、彼女は人妻、経験あり。お兄ちゃんはと言えば、冗談でも、あたしと家族風呂に入りたいと言うようないやらしい男。いや、あれは、絶対に本気だった。絶対に、女性の体に興味がある。それなのに、どうして?

それで、彼女がシャワーに入っている時に、お兄ちゃんに聞いてみた。
「ねぇ、お兄ちゃん、彼女とどこまでいったの?」
「お前、またその質問かよ。うんざりだな。いいじゃないか、仲良くやってんだから」
「その、仲良くと言うのは、どのくらい?」
「手を繋いだり......」
「キスをしたり?」
「ん? まだ、そこまでは......」
「何? まだキスもしたことないの?! お兄ちゃん。小学生の初恋じゃあるまいし! 全くもって、呆れるよ。そんな調子だから、彼女が逃げたりしたんじゃないの?!」
「違うよ。それに、俺だって、欲求と言うものはある。だけど、お前。相手は、その~、人妻だぞ。経験者だぞ。俺が下手な事をしでかしたら、その方が、やばくないか?」
「全く情けのない人だなー。じゃー、しょうがない。あたしが、少し手ほどきしてあげようか」
「えっ? お前、まさか?!!」
あたしは、お兄ちゃんが何を想像しているのか、すぐに察しがついた。
「何考えてるの?! いやらしい。いくらあたしでも、そんな事するわけないでしょ!!」
お兄ちゃんは少しがっかりしているかの様だった。

「あたしが、手伝ってあげようかと言うのは、キスの仕方くらいだよ」
お兄ちゃんはまた驚いた。
「えっ? お前に、キスしてもいいの?」
「バカ! あたしたちは兄妹でしょ! そうじゃなくてー、人工呼吸の講習でやるでしょ? ハンカチを口に当てて......」
「あぁ、そう言う事。ところで、俺は、そんな講習出た事なかったけど、出ておけば良かったな」
全く、呆れた人だ。それでも、可哀そうだから、あたしは、出来るだけの事を教えてあげた。折角彼女がその気になっても、相手のお兄ちゃんがこうもだらしないと、まずいよ。

その頃から、お兄ちゃんと彼女が二人だけの時間を過ごせるように、あたしは、休日、外に出かけるようにした。「アパートは暑いから、お店にでも行って涼んでくる」とか言って。

また、時には三人でも出かけた。ある日、吉祥寺に行った帰り、二人は腕を組んで歩いている。彼女のびっこのせいもあり、ゆっくりだ。それで、あたしは、一人、先を歩いていた。アパートのそばの病院の前まで来た時、急に後ろで声がした。
「重衣! 重衣じゃないか。どうしてこんな所に?」
「あっ、課長。僕のアパートはすぐそこなんで。それより、課長こそ、どうしてここに?」

あたしは、振り向いて、離れたまま様子を伺った。その、課長と言う人は花を持っている。
「あぁ、おれは、姪っ子が近くの体育大学に行ってるんだけど、試合中にかなりのケガをして、この病院に入院している。それで、見舞いに来たんだ。大事にはならずに済んだが、まだ、少し時間がかかるらしい」
「それは、お気の毒に。でも、良かったですね」

次の瞬間、課長は、一歩後ずさりして、彼女の事を上から下まで眺めまわした。
「おっ、おっ、おっとー! もしかして、今谷?」
彼女は、ぺこんとお辞儀をした。課長は、もう驚きが隠せないと言う様子で、ボーっと立ち尽くしている。それで、お兄ちゃんが説明を始めた。
「課長、僕たち、今、一緒に住んでるんですよ」
課長は、まだ何も言わずに、突っ立っている。それこそ、失語症になったような感じだ。
「僕たち、ばったり出会って、それで、一緒に居ようと言う事になったんですよ」

かなりの時間が掛かって、課長は、やっと言葉を思い出したようだ。
「あー、驚いた。そうか。『バッタリ』か。【バッタリ】ね。そう言う訳だったのか。ほんとは......、重衣、今谷の事、必死に探そうとしてたよな? まぁ、いい。良かったじゃないか。それにしても、今谷【は】、優秀だったよな。重衣なんか、未だに、今谷の二年目の売り上げに達していないもんな」
「課長! それは、ひどい。僕だって、新人指導もしたし、少しは、会社に貢献しているでしょう?」
「いや、失礼。ついつい本当の事を言ってしまった。だが、君が頑張っていることだって分かっているよ。ところで、今谷が、会社に復帰すると言う事はないかな?」
「うっう~ん。課長、じゃ、さようなら」
お兄ちゃんは、機嫌を悪くしたみたいで、彼女を引き連れて、さっさと課長の所を離れた。課長は、不思議そうに二人の方を見たまま、立ちすくんでいた。

さて、確かに、彼女は、いろいろと有能ではあるようだ。営業の売り上げ、英語、フルートと、人並み以上にこなす......、らしい。ところが、最近、彼女にも苦手な事があると分かった。彼女は、何もしないでぶらぶらしている事が、気になり始めたみたいで、何かと、あたしのやっている家事を手伝ってくれようとする。ところが、炊事、洗濯、掃除と何をとってもうまく出来ない。確かに、交通事故の障害が残っているのは分かるけど、どうも、そういう問題じゃないようだ。ひょっとすると、記憶喪失になる前は、お姫様の様な生活を送っていたんじゃないかな? そんなお姫様が、話に聞く暴力男と結婚したとなると、益々訳ありだ。略奪結婚かな、とか勝手に想像をしたりするが、どうも、拉致が明かない。それに、可哀そうな事に、彼女自身、何も覚えていない。

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彼女、家事については、あまりあたしの助けにならない事に気が付いたようだ。今度は、仕事を始めたいと言う。ところが、彼女は、たった数枚の服を代わる代わる着ている。まぁ、着た切り雀のお姫様と言ったところかな。ただ、これでは、職場でひんしゅくを買うに決まっている。

それで、まず、二人で吉祥寺に出掛け、お兄ちゃんからもらったお金で、彼女に服を何枚か買ってあげた。そして、ついでに指輪も買ってあげた。なんだか、あたしはお姫様の下女みたいだ。その後、アーケードを歩いていると、彼女が、猫カフェの前で立ち止まった。そして、携帯に、『猫好き、入りたい』と入力して、あたしに見せた。それで、暫く、そこで、猫ちゃん達と遊ぶことにした。そして、そこを出るときに、彼女は、求人の張り紙にくぎ付けになった。何やら、必死に考えている。そして、『ここで働きたい』と入力してきた。あたしは、内心大丈夫だろうかと思った。彼女、ほんとに、ここで仕事が出来るのだろうか?

それでも、少し手伝ってあげようと思って、カウンターにいる人に尋ねた。
「この仕事、まだありますか?」
「ええ、平日の昼間だけですけどね」
「あぁ、それは、丁度いいです」
「じゃ、あなた、履歴書を持ってきてくれますか?」
「えーと、実は、彼女なんですが」
すると、その人は、彼女の方を向いて言った。
「はぁ、じゃ、履歴書を持ってきてください」

彼女がすぐに返事をしなかったので、あたしは、ちょっと心配になって、割り込んだ。
「分かりました。あの~、彼女、え~と、ちょっと喉が痛いって言ってたので」
あたしは、こう言って、彼女の方を向いた。そうしたら、彼女が急に口を開いた。
「もう治りました。今度、履歴書を持ってきます」
「じゃ、お願いします」

そこを出るとすぐに、彼女に話しかけた。
「奏多さん、あの時はどうしようかと思ったんだけど、大丈夫?」
『大丈夫。前、営業してたし』
「そうだったら、良いけど」

お兄ちゃんが帰ってくると、彼女は、すぐにお兄ちゃんの手を取って、電話を見せた。『猫カフェで働きたい』とでも書いてあるのだろう。それを見たお兄ちゃんは驚いた。
「ほんとに? 大丈夫?」
彼女はけろっとしている。その後、お兄ちゃんは、彼女の指輪に気が付いた。
「あれっ? それ、どうしたの?」
ここは、あたしが割り込んだ。
「あ~、それは、あたしが買ってあげたの。お兄ちゃん、意味わかる?」
「結婚指輪をする指だよな」
「そうだよ。これは、外出中の、男よけだよ。ほんとはね、早くお兄ちゃんがそう言うものを買ってあげたらいいんじゃないの?」

そうしたら、彼女は、顔を赤らめて嬉しそうにしている。彼女は、お兄ちゃんと結婚したいのかも......。でも、今は、まだ、他の男の妻だし......。その後、みんなで話し合って、彼女が明日、猫カフェに履歴書を出して、採用されたら、当面、行きと帰りは、あたしが一緒に通う事にした。履歴書の記入はあたしが手伝った。
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