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ところで、自分で言うのもなんだが、ぼくは、正義感の強い、実行力のある人間だ。それで、彼女の事は、ずっと、かなり気になっている。本当に気の毒で仕方がない。それで、頼まれてもいないのに、暴力夫からの離婚を手伝おうと、独自に調べ始めていた。その途中で、その男が死んでいる事を知ったのだ。ところが、もっと驚くべき事が分かった。

「彼女の夫の、え~と、夫だと思われていた男と言おうか、戸籍を調べたんだけど、なんと、独身なんだよ。つまり、彼女は結婚していない。少なくとも、この、夫と思われていた男とは結婚していないんだ」
「えー! じゃ、この男、奏多さんに、結婚していると嘘をついていた訳?! 奏多さんは記憶喪失だから、それが嘘だと分からなかった訳?!!」
「どうやら、そうみたいだ」
「じゃ、益々持って、良いじゃない。独身、バツなしと」
「たぶん。だけど、逆に困った事になった」
「えっ? 何が?」

「彼女の本当の姓が分からないんだよ。今谷というのは、殺された男の姓だ」
「それを言うなら、『奏多』と言う名前も、作り物かもしれないよね」
「確かに。ただ、ぼくの直感だと、そんな暴力男が、わざわざ、こんな洒落た名前を付けないんじゃないかと思う。それで、名前の方は、取り敢えず、本当と言う前提で進んでいいんじゃないかな」
「ふ~ん、なるほど。兎に角、彼女の事をこれ以上調べられないと言うこと?」
「その通り。少なくとも、今の時点では」
「でも、この事、つまり、戸籍上は結婚してはいなかったと言う事を、彼女に言ってもいいよね?」
「そうだね。それは大丈夫だと思う」

そして、ぼくは意外な事に気が付いた。
「いずれにしても、今まで、彼女を採用してきた会社と言うのは、随分とずさんなものだよね。実在しない名前の人間を簡単に採用してしまうんだから」
「えへん、全く、その通り。それで、一番最近彼女を採用したのは、どこの誰だったっけ? この辺の猫カフェの管理人かな?」
「あっ、うん......、それは......。ぼくとしたことが......」
「あ~ぁ。でも、良かった。おかげで、あたし達、巡り合えたから」

それ以外にも分かったことがあった。まずは、彼女の記憶喪失について。この件に関しては、大学中退者の会のメンバーで、医学部中退の奴の知恵を拝借した。この中退者の会には、ありとあらゆる分野の人間がいる。そして、日本の大学は黙っていれば卒業してしまうのに対して、中退するには、何かしらのアクションを起こさなければならない。だから、中退者の多くは、人並以上の実行力があるし、変な自負感もある。そのせいか、自分の専門分野について、良く調べて、それなりに詳しい人間が多い。

さて、彼女の交通事故の後の記憶喪失は、治った事を考えれば、一過性の様だ。しかし、暴力男に殴られた時に生じた記憶喪失は、もうかなりの時間が経つので、慢性かもしれない。いずれも、外傷による、逆行性健忘症で、全生活史健忘とみられる。つまり、発症以前の出来事に関する記憶を全く思い出せない。

それで、暴力男に殴られた時点の状況を探ろうと、彼女の入院したと思われる病院を探した。暴力男の住所から近い順に、可能性のある病院を片っ端から当たって、やっと、見つけた。そこで、ぼくの法律の知識をちょっとばかり過大応用して、彼女のカルテを入手した。そこには、頭部外傷と単純ヘルペスウイルス3型 によるヘルペス脳炎の事が記載されていた。そして、もう一つ、NMMDBT剤が使用されたともあった。頭部外傷は兎も角、どうして、脳障害を起こすようなウィルス感染が同時発生し、同時に、記憶喪失が副作用として知られている薬剤が使われたのか? そして、担当医は院長。ただ、最近、この病院は、院長以下、職員ほぼ全員入れ替わっている。それでも、掃除のおじさんの一人は、継続して働いていたので、意外な情報を仕入れることが出来た。

まず、前の院長は、彼女の夫と思われていた暴力男と馴染みで、この暴力男は、この院長を頻繁に訪れていた事。そして、この院長は、暴力男が殺されたのと同じ頃に、やはり、何者かに殺されている。それで、院長が変わり、職員も総入れ替えになったらしい。

ぼくは、相当なショックを受けた。彼女は、頭部外傷の治療と同時に、意図的に記憶喪失を起こさせるか、助長させるような処置をされたに違いない。つまり、暴力男と院長とが絡んでの犯罪が行われた可能性が高い。ウィルスによる障害も、この薬剤の副作用も、効果は予測不可能なので、二重に使われたのではないか? 少し間違えば、彼女は命を落としていたかもしれない。

記憶喪失の多くの場合、期間は数日から数ヶ月で、一生に渡って記憶が戻らないケースは、極めて稀の様だ。それで、暴力男は、彼女の記憶が戻ってしまう事を恐れたに違いない。何か、重要な事を隠さなければならなかったに違いない。

もう一つ、彼女が、私事を話せないのは、場面緘黙症とか、選択性緘黙に値するかもしれない。一般には子供に多いらしいが、大人のケースがない訳ではない。これは、確実に記憶喪失に関係しているはずだ。

ぼくがこの事を逸ちゃんに話すと、驚きが隠せない様子だった。
「そんなぁ! ひどすぎる!! 彼女、そんなひどい目に会っていたの? そして、それを全く知らないと言うの?!」
「そう言う事だと思う。それにしても、記憶喪失なんて、そうざらにある事ではないんだよ。安っぽいフィクションではよく使われるけど」
「それじゃ、あたし達、安っぽいフィクションの登場人物だとでも言うの?」
「まぁ、そういきり立たないでよ。『事実は小説よりも奇なり』って言うじゃない。兎に角、この情報は、まだ彼女には言えないよね。彼女の心の準備が出来ているとは限らないから。もし、言えるとすれば、それは、彼女に、自分の過去がどんなに辛くても乗り越えられると言う自信がある場合に限られると思う。そして、それには、現在が安定していて、将来に不安がないような状態が必要だと思う。ぼくは、津載さんと彼女が結婚したら、そう言う状態に近づけるんじゃないかと思うんだけど」
「なるほど......。確かに。あの二人、熱々なんだけど......。彼女だって、『重衣奏多になりたい』って宣言したし。問題は、あの、出来損ないのお兄ちゃんだ。どうして、すぐに、プロポーズしないのかな~?」
「確かに、そうだよね。津載さん、かたわではなかったみたいだけど、他にも何か問題があるのかなぁ......」
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