文字数 2,865文字

ボクがお姉ちゃんに最後に会ったのは、お姉ちゃんが夏休みをバンクーバーでボク達と一緒に過ごした後、広島の大学に戻るときだった。まさか、あんなことになるとは思わなかったから、空港で、皆、気軽に見送った。

何か月かして、父さんが電話に出た後、真っ白な顔になって、黙り込んでしまった。その後、父さんから話を聞いた。広島で、うちの財産の事を知った男が、お姉ちゃんを誘拐してお金を要求してきたと言うのだ。ボクもハンマーで頭を殴られたようなショックを受けた。

お姉ちゃんの事が心配な父さん母さんは、すぐにお金を払った。ところが、男は一向にお姉ちゃんを返してくれなかった。男は、お姉ちゃんと仲良くなったので、そのまま一緒に暮らすと言ったらしい。当然、父さん母さんはそんな事は信じなかったが、「警察に通報したら、奏多の命はないぞ」と脅されて、どうにもできなかった。ボクも、父さんから「この事を警察に通報するな。奏多の命に係わる」と言われていた。

それから、暫く経った頃の事、父さん母さんが買い物に出かけたまま、いつまで経っても帰らなかった。ボクは、もう、悲しいのと、怖いので、どうしようもなかった。そして、それから、何日も経たないうちに、家に誰かが来て、ボクに、「家が売れたから、明日までにここを出ていくように」と言った。

その夜、父さんから電話があった。
「臨夢、大変な事になった。だが、辛いことがあっても絶対に挫けるな。そして、たとえ、うちの財産が無くなっても、落胆するな。それが、お前と、もし、まだ生きていれば、奏多を救う最善の策だ。実は、父さんも母さんも、子供の頃から辛い思いをしてきた。それでも、何とか生きてきた。お前も、強く生きろ」

ボクは何が何だか分からずに、眠れぬ夜を過ごした。次の日、色々な人々が来て、勝手に家の中をかたずけ始めた。どうして、急に、こんな事になってしまったのか? この人たちには、何の権利があるのか? そうしている間に、飼っていた猫の一匹は、怖がって、人々が出入りしている隙に家から抜け出して、どこかへ行ってしまった。もう一匹は、ボクの部屋のベッドの下に隠れた。もう家に居られないと分かって、お手伝いさんの一人、マージが、ボクを連れてここを出るからと言い、身の回りの物をかき集め始めた。ボクは、バックパックと猫を入れたキャリアだけ持って、マージの家に行った。そこで、ボクたちは、思いっきり泣いた。いつまでも、泣いた。

マージは、ボクの父さん母さんが普通以上の給料を支払ってくれていたし、家族の様に対応してくれたから、と言って、ボクをずっと一緒に居させてくれた。マージは、長いこと、お姉ちゃんとボクを世話をしてくれた人で、ボク達を孫の様に思っている。それに、バンクーバーにも日本にも親戚のいなかった父さん母さんにとって、マージは親の様だったのだろう。いつも、マージの言う事には逆らわなかった。

ボクの生活はガラッと変わってしまった。すごく大きな家から、すごく小さな家に移り、今まで行っていた中学と高校が一緒の有名私立校から、マージの家の近くの公立中学に移った。制服から、私服に変わった。それまでの友達との付き合いもなくなり、新しい友達はなかなか出来なかった。豪華な食事から、質素な食事に変わった。それでも、マージは前と同じように、ボクをプリンスの様に大事に扱ってくれた。

だが、どんなに、マージが優しくても、それは、それは、辛い日々だった。お姉ちゃんが誘拐され、行方不明、その上に、今度は、父さん母さんまで誘拐され、行方不明。そして、父さんの言葉を思い出した。たとえ、父さん、母さんが子供の頃に辛い思いをしたと言ったって、これほどではなかっただろう。ボクは、どんなことをしても、みんなを探し当てたいと思っていたが、みんなの命が危ないと思うと下手な事も出来ない。ただ、父さんが電話で言ったように、ボクは何も取られる物を持ってなかったので、誰かに襲われると言う事もなかった。

多分、その時までに、ボクの性格も変わってしまったと思う。中学、高校と、一応学校には行ったが、何も学んだような気はしない。誰も、親しい友達は出来なかったし、無気力な数年間だった。もしかしたら、ボクの人生は、このまま、無意味に終わってしまうのではないか。そんな恐れもあった。ただ一つしたことは、マージの家にあった、おんぼろで音程の狂ったアップライトピアノを弾きまくることだった。ボクは、そんな事で、やりどころのない悲しさと怒りを発散しなくてはならなかった。

そして、高校を卒業した時に、マージが言った。
「ノーム、高校卒業おめでとう。わたしは、ノームがまだショックから立ち直っていないのは良く分かる。わたしだって、今でも、悲しい。でも、わたしと違って、ノームはまだ若い。これからだ。ノーム、わたしから、高校卒業祝いがある。これは、決して、わたしが好むものでも、簡単な事でもない。ノーム、わたしの卒業祝いは、あなたをここから追い出すことだ。ここを出て行きなさい。自分の道を、自分で探しなさい」

ボクは、谷底に落とされた気分だった。ボクに、これ以上辛い思いをさせるのか? 理屈では、マージの言う事は分かる。可愛い我が子を谷底に落とす親ライオンの様なものだろう。だけど、今のボクには、這い上がる気力なんてない。全くないんだ。

ボクは、お金を少しもらって、マージの所から追い出された。マージが泣いているのがよく分かった。考えてみれば、あの時、もし、マージがボクを引き取ってくれなかったら、ボクはどうなっていたのだろう? そう思うと、今度は、マージのありがたさが強く感じられた。ボクは、慌てて振り向いて、マージの所へ駆け寄り、抱き着いた。そして、ボクも泣いた。

それから、ボクは汚いドミトリーの様な所に滞在し、仕事を転々とした。クリーナー、工事現場、そして、皿洗い。経験のないボクには、どれも辛い仕事だった。それでも、我慢して働いた。連れてきた猫の為にも。その中で、ボクが少しでも続けたいと思ったのは、レストランでの仕事だった。幾つか、レストランを変わりながら、最終的には、バンクーバー・ルックアウトの360度回転レストランのウェイターになった。ここは、高級レストランなので、チップが良い。それで、ボクの生活は、少しマシになった。

ボクは、相変わらず一人の生活だったので、ホリデーの時期は寂しかった。それで、クリスマスの日に、テイクアウトのクリスマス・ディナーを買って、マージの所を訪れた。ドアをノックした時に出てきたのは、マージではなかった。マージは、もう死んでいた。ただ、その人は、マージの眠っている墓地を知っていると言うので、教えてもらった。ボクはその墓地に行き、はじから一つづつ、マージのお墓を探した。見つけると、持ってきたディナーを墓石の前に置いた。もしかしたら、マージは自分が長いこと生きられないと知っていて、ボクを追い出したのかも知れない。ありがとう、マージ。安らかに、眠れ。
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