第25話

文字数 2,607文字


 いわくに――。
 安河内蓮にとっては、とりわけ愛着のある地名だった。
「わたしね、高校生のころ、しょっちゅう、岩国に遊びにいってたのよ」
 さも嬉しそうに、蓮が言う。
 とてもじゃないが、さっきまでと同一人物とは思えない。あんなに尖った目をして涼を睨んでいた人物とは、到底――。
 もっとも、それも無理からぬことだった。
 なにしろ、蓮はさっきまで、てっきり涼が男に指図して、近藤結花を殺害させた――その犯人だと、信じてやまなかったのだから。
 でもそれは、正鵠を射ていなかった。それについては、忸怩たる思いのある、そんな蓮であった。
 けれどすぐに、それを払拭してくれる事実が判明した。あの恵風涼が、岩国の出身だということがわかったからだ――。
「先生が、岩国に来られていたのは、錦帯橋がお目当てだったんですか?」
 屈託のない笑みを浮かべて、涼が、蓮に訊く。これも、さっきまでとは大ちがい。
 さっきまではこじれていたのだ、涼の部屋の空気は。それが、にわかにほぐれていた。
「ううん、ちがうの。そうじゃなくて、駅前にアーケード街があるじゃない」
「あ、はい、あります。でもいまでは、すっかりシャッター通りと化しているようですけどね」
 ふと涼が、顔を曇らせて言う。
「そうらしいわね。地方の疲弊が叫ばれて久しいというのに、政治家は何をやってんだか……まあ、それはさておき、そこにクラブがあったのよ……いまも思い出すたびに胸が鈍くうずくんだよね」
 ノスタルジーに駆られたような口ぶりで、蓮が言う。
「クラブって、あの?」
 急に、浩子が口を挟む。先生が、というふうに、意外そうな顔をして。
「そう、DJが選曲したメロディに合わせてみんなが踊る、あれ。そのクラブ、涼さんもご存知かしら?」
「いいえ」
 間髪を入れず、涼が首を横に振る。
「そう……たぶん涼さんは優等生なんだね。その点、わたしは不良の、少女Aだったわ」
 自虐交じりに、蓮が言った。
 え⁈ それなんですか? 
 ふっと頬をゆるめて、浩子が首をかしげる。
 涼も口元もゆるめて、小首をかしげて見せた。
「ああ、そうね……二人は知らないわよね。中森明菜の少女Aっていう歌」
「はい、知りません」
「わたしも……です」
 さっきまでぶっきらぼうだった涼の口調が、いまでは、すっかり打ち解けたようなそれに変わっていた。
 懐かしい自分のふるさとの地名が、人気作家の蓮の口をついたのが嬉しかったし、なにより、彼女が、そこを度々訪れていたという事実が、ことのほか彼女を喜ばせてもいた。
「ま、知らないのも無理はないか。下手したら、あなたたち、わたしの娘のようなもんだもんね……」
 そう言って、蓮は二人の顔を交互に眺めて、深いため息をつくのだった。
 
「青春ってさ、どうしょうもなく退屈でやりきれないときあるがじゃない」
 そう蓮は口を開くと、さらに、つづけて言った。
「そうやって退屈を持て余しているとき、小耳に挟んだのよ。岩国に、ベースの若い兵隊さんたちが集まるクラブがある、ってね。ウチの家から電車を利用すると、そこまでドアトゥドアで一時間半ぐらいで行けるの。これよ、これって、わたし心を弾ませて出かけたもんだわ」
「え、先生、高校生のときに、そんな怪しい場所に行ってたんですか?」
 驚いたように浩子が、目を丸く見張る。
「いまにして思えば、あまりにも退屈だったのよ、高校生活が……だからさ、何か面白いことないかなって、いつも、探してた。同級生の男の子なんて、アイドルやタレントがどうしたとか、ファミコンのゲームソフトがどうしたとか、あまりにも子どもっぽくてさ、相手にするのがバカらしくてね……」
「でも先生、ベース――つまり米軍基地の兵士って、やたら図体がデカくて、おっかない感じじゃなかったですか、女子高生の先生にしてみれば。そういう人たちとよく遊ぶ気になりましたね、先生」
 お嬢様育ちの浩子が、やや非難めいたような口ぶりで言う。
「わたしはわたしよ、関係ないわ、って感じでね。あ、これ、少女Aの歌詞ね――それで、アメカジと化粧とをバッチしきめて、高校生ってバレないようにして遊んでたの。すごくスリルがあって、刺激的だったなぁ」
「へぇ、先生って見かけによらず、けっこう大胆な人だったんですね」
 あら⁈
 それを聞いた蓮は、さっき、恵風涼の部屋を訪れようと言い出したのはだったっけ……そんなヒロちゃんに、大胆なんて言われたくないわね――そう、心のなかでつぶやきながら、上目づかいに、いたずらっぽく浩子を見て、こう言った。
「でもさぁ、あのころの刺激的な体験があるからこそ、いま、こうして、みなさんがよろこぶようなおはなしが書けているのよ。それを思えば彼らと遊んでいたのも、あながち悪いとはいえなくてよ、ヒロちゃん」
「あ、そ、そうですねぇ……」
 内心バツが悪そうに浩子がつぶやく。
「もしも、そうした体験が先生になかったら、わたしこうして、ここにいなかったかもしれないんですもんね」
 
「大学進学のために上京し、卒業後、この街で就職して、それから、わたしは作家になって、いまに至っているの。で、涼さんは何歳から、東京に?」
 相変わらず、屈託のない笑みを浮かべて、蓮が尋ねる。
「わたしは――」
 そこでことばを区切った涼は、押さえ込んでいた記憶を心からそっと取り出すような感じで、ことばを、こう継ぐ。
「思えば小学六年生の夏休みに、友達と二人で原宿に遊びに行ったのが、きっかけでした。そのとき、いまのプロダクションの社長に、ねえ、キミ、ウチの事務所に来ない、ってスカウトされたんです」
「へえ、それで、東京に」
 改めて、涼の美貌にしみじみとした眼差しを向けて、蓮は言った。
「いえ、両親はそのとき、大反対でした。だから――」
 そこで言い淀んだ涼は一瞬、唇を噛んで、それから、ことばを選ぶようにして、こうつづけた。
「――そんなときだったんです、あの事故が起こったのは。ママはあの日、わたしと小学二年の弟にこう告げて、パパと二人でドライブに行ったんです。二人の大好きなお寿司をお土産に買ってきてあげるから、仲良くお留守番しててね、って。でもそれが、ママの最後の言葉でした――」
 え! そ、それが最後の――。
 思わず、二人は息を吞む。と同時に、ゆるんでいた頬が、にわかにこわばった。
 その表情のまま、二人は黙って、涼の口元を見つめるのだった。
 
 
つづく
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