第28話

文字数 1,622文字

 え⁈ 
 どうして、あの先生がここにいるの?
 腑に落ちないという表情をして、男は首をかしげる。
 あ、そういえば――思い当たる節があった、男には。
 彼女の実家、広島だったよなあ、というふうに。
 だとしてもだ――またしても、男は首をかしげる。
 実家があるのは、たしか、広島市内だったはず。でもここは、宮島だろう……。
 彼女はここに、いったい、何をしにきたんだろう、と男はしきりにいぶかる。
 だいたいさ、と男は内心つぶやくと、いかにも腹立たしそうに顔をしかめた。
 あんたが、余計な世話を焼かなかったら、あの女を始末せずにすんだんだ。恵風涼の隣室に、あの女が入居できるよう、余計な世話を焼かなきゃな……。
 強く、唇を噛んで、男は眼差しの向こうにいる女性をねめつける。
 待てよ――ハッとして、男は頬をこわばらせる。
 考えてみたら、わたしとあの女に接点があることを知ってるのは、この先生だけだ。まさか、それを疑って、わたしの周りをウロチョロしてる⁈
 男はそう思うと心中穏やかでいられない。
 けれどすぐに男は、いやいや、とかぶりを振って思い直す。
 いくらなんでも、それはちょっとうがちすぎってもんでしょう、と苦笑交じりに。
 でもね、おばさん――虫も殺さないような柔和な顔を醜く、豹変させて、男は内心毒づく。
 あんまりわたしの周りをウロチョロしすぎると、いずれあんたも、あの女のように始末しなくちゃいけなくなるんだからね、と陰性の光を瞳のなかに宿らせて――。
 
 
 
「とうとう、真犯人逮捕かと思いきや、存外、彼は恵風涼さんの弟だったんだね」
「ああ、そうなんだよ……また、振り出しに戻っちまったよ」
 ふたたび、東京駅のはす向かいにある、新丸ビルの、そのテラス席――。
 ようやっと、コロナウイルス隔離期間から解放された、警視庁捜査一課の矢吹警部と科捜研の女・森村陽子がそこに腰を据えて、赤ワインを傾けながら、今日の疲れを癒している。
「近藤結花の無念を晴らそうと思って上京してこられた安河内先生は、さぞやがっかりされてることでしょうね」
 長い黒髪をかきあげながら、陽子が言う。
「うん……なんでも、実家に帰られたらしい」
 そう言って、矢吹は、赤ワインをまずそうに一気に煽った。
「実家って、広島の?」
 かすかに首をかしげて言うと、陽子も同じように赤ワインを、美しい眉をひそめて一気に煽った。
 さすがに警視庁並びに科捜研きっての酒豪の二人である。それもさることながら、二人にとっては、久方ぶりの、外飲みでもあった。
 それもあってか、トスカーナの高級ワインキャンティが、みるみるうちに、一本空になってしまった。
「おーい、キミ!」
「はーい、同じの、もう一本ですね」
 ふふ――嬉しそうに、矢吹は口元をゆるめる。
 いまどきの若者にしちゃ、なかなか気が利くじゃねぇか、そう思って。
 
「それにしても、参ったわね。これじゃ、まるで事件は藪の中、って様相を呈してる」
 風に吹かれて、戦ぐ、長い黒髪をかきあげながら、陽子が言う。
「当初、ダイニングメッセージとおぼしきジッポーのライターは、その持ち主であるプロデューサーの小西が無実だと判明して、ただのライターに。次に、今度こそ真犯人か、と喜び勇んだ恵風涼さんの男も彼女の弟だと判明して、結局のところ、ぬか喜びに終わってしまったわ。残念ながら、防犯カメラの解析にあたった研究員たちの努力も、あえなく、水泡に帰してしまったし……」
「ああ……どれもこれも、的外れだ。困ったことに、八方ふさがりってもんだよ」
 しゅんと肩をすぼめ、うつむき加減に矢吹は、情けなそうな息をつく。
 さしもの『切れ者矢吹』の異名を誇る彼も、今回ばかりはお手上げか――と思ったら、ところがどっこい、彼の目は死んでいなかった。
 いや、それより何より、彼の瞳には、真犯人をしょっぴくまではだれが諦めるもんか、というような、近強い闘志の焔が、頼もしく、宿ってさえいたのだった。


つづく
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み