第24話

文字数 1,802文字



 
 わずかの間のあとで、伏し目がちに、涼は「そうよ」と、低い声でつぶやいた。
 この予想だにしない返答に浩子は、え! ウソでしょう、と目をぱちくりさせた。
 いくらなんでも、兄弟なんて陳腐な返答はないだろうと、彼女は内心きめつけていたからだ。
 「ほんとうよ……」
 ややムッとした顔つきで、涼が言う。
「ほんとうに、アイツは、わたしの弟なの」と、さっきより少し大きな声で――。
 それを聞いた浩子は「そうだったの……」と、ため息交じりにつぶやいて、二の句が継げなかった。
 もちろん、蓮は顔をしかめて、思わず絶句。
 ちょっと気まずい沈黙が訪れる――。
 それも無理はない。
 なにせ蓮は、彼こそが、涼にとっての不都合な真実を払拭した人物――つまり、近藤結花をこの世から抹殺した、その犯人だと決めつけて今宵、ここを訪れていたのだから……。
 一方で、涼も心中穏やかでいられなかった。
 かつて隣人だった人気作家の安河内蓮は、わたしが女優だということを知った。おまけに、そんなわたしに男の影があるということも――。
 だからといって、こんな夜分遅くに、どうして、彼女は訪ねてきたのだろう。
 まさか――ふと、ある考えが、涼の頭をよぎって、心中穏やかでいられなかった。
 それをネタにして、わたしをゆするっていうこと?
 けれどすぐにその考えを、涼は、苦笑交じりに打ち消した。
 たぶん、いえ、きっとわたし以上の財産を持ち合わせている彼女が、あえてそんな危険を侵す必要があるかしら、そう考え直して――。
 
 涼はいままでずっと、プライベートについて世間のみならず、業界関係者などにも一切語ったことがなかった。
 実年齢はもとより、出身地とか家族構成とかといったプライベートを、涼はこれまで、だれにも打ち明けることはなかったのだ。それも、頑なまでに……。
 そしてそれは、これからもずっとそうしようと、涼は心密かにきめていた。
 では、彼女はなぜ、頑なまでにプライベートを語ろうとしないのか。
 という疑問が、当然湧いてくる。
 もちろん、理由がある。
 それというのも、涼には過去に於いて、ほんの少しでも思い出すと、とてもつらくなる、そういう酸鼻な事件があったからだ。
 そこで涼は、日常のふとした瞬間に、その思い出が顔を覗かせないようにと、心の倉庫にしまって固く封印していたのだった。
 でも今回ばかりは――突然、涼は考える。
 ゆすられることはないにせよ、後々、めんどうなことが起こらないとも限らない。だから、弟のことはちゃんと説明しといたほうがよさそうね、と。
 それに――重ねて、涼は、こうも考える。
 こんな時間に、わざわざ訪ねてくるところをみると、もしかしたら、彼女の中で、何かのっぴきならない事態が生じているのだろうか、とも。
 そう考えるから、涼は「わかったわ」と低くつぶやき、「先生にだけは、わたしのプライベートを打ち明けましょう」と一段と低い声で言って、ことばを、こう継ぐのだった。
 
「わたしが生まれたのは本州の西の外れ、錦帯橋という木造りの橋が市内を流れる川に架かる、うんと歴史のある街なの」
「え! そうなの」
 涼のことばを遮るようにして、蓮が素っ頓狂な声をあげた。
「涼さんは岩国なの! わたしは、広島よ」
 それを聞いた涼は一瞬、目を、大きく丸めて、それから、ふっと頬をゆるめた。
 まさか、安河内蓮の口から自分の生まれ故郷の名が出てくるとは、思いもしなかったからだ。
 しかも、馴染みのある「広島」という、街の名まで――。
 涼の生まれ故郷である岩国は、山口県と広島県の県境にある、過去の遺産と現代の不条理とが渾然一体となった街だった。
 過去の遺産というのは、市内を流れる清流錦川に江戸時代に創建された日本三大奇矯の一つ、錦帯橋が優美に架かっている点だ。
 それとまた、現代の不条理というのは、その錦川の河口にある肥沃な平野の大部分を、米軍基地が独占しているという点であった……。
 そんな岩国は山口県にある冴えない地方都市の一つだが、その商業圏は、広島県との県境にあるのにくわえ、広島はこのあたりで大都市ということもあって、必然的に、広島圏に属していた。
 涼は、だから上京するまで、地元の寂れた市街地より、広島の華やいだ繁華街に足繫く通っていたものだ。
 それだけに、「広島」という街の名を耳にしたとき、思わず涼は郷愁を覚えてしまうのだった。


つづく
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