第3話
文字数 1,427文字
「先生!」
だしぬけに、蓮を呼ぶ声がした。ホテルのロビーに、若い女性が卒前として現れ、蓮に手を振っている。
「遅くなりまして申し訳ございません」
息を切らしながら、その女性は、蓮に歩み寄ると、深々と首を垂れた。
「あら、ヒロちゃん」
ソファーに腰を下ろしていた連は「ヒロちゃん」と呼んだ女性を見上げて、優しい笑顔で言った。
「気にしなくていいのよ。全然待ってないもの。それより、遠路はるばるご苦労様」
「そ、そうですか……」
ふう、よかったぁ、というふうに、安堵の息をついた彼女は一転、その顔をややしかめて言った。
「社を出ようとしたら、急に、編集長が呼び止めるんです……それで、乗車するつもりでいたのぞみに乗り遅れちゃって」
蓮が「ヒロちゃん」と呼んだ彼女は、東京のとある出版社の編集者。名前を山本浩子といって、昨年の春から、蓮を担当している。
おや? その浩子がふいに、首をかしげた。てっきり、蓮ひとりが待っていると思いきや、存外、連れがいたからだ。そこで浩子は、この人、だれですか、という目をして、蓮に訊いた。
あ、この人ね――すぐさま、浩子の目配せの意味を察した蓮は、さっそく、彼女に、結花を紹介する。
「彼女は近藤結花さん。テレビで芸能レポーターをされてるそうよ。きょうも、あるテレビ番組のお仕事で、この宮島にいらっしゃってるんですって。しかも、わたしと同様に、このホテルに宿泊されてるの。なんでも彼女ね……」
そこで言葉を区切った蓮は、いかにも嬉しそうに頬をほころばせて、言葉を継いだ。
「わたしの作品の大ファンらしいの。わたし、それがとってもうれしくてね。それで、ヒロちゃんを待っている間、よもやまの話をし合ってたところなの」
めずらしく、連は饒舌だった。
それもムリはないなぁ、と浩子はしみじみと思う。このコロナ禍の中、出版記念などのサイン会は軒並み中止になっていた。そして何より、本人自身が新型コロナに感染し、こうして命に別状はなかったものの、その後遺症に思いのほか悩まされていた。それで、ファンと交流するのは久方ぶりのことでもあった。
やっと、あたりまえの日常が戻ってくれたのね――その実感をひしひし嚙みしめながら、浩子はふと、目の端で結花を覗いた。
言われてみれば、この人、たしかにテレビで見かけたことのある顔だわ――たぶんその想念が、顔に出ていたのだろう。
「あら、嬉しいわ。わたしのことご存知のようね……あ、ちょっと待って」
結花はそこで言葉を切ると、「はい、これ名刺」と浩子に差し出し、つづけて言った。
「わたしね、安河内連先生の作品の大、大、大ファンなの。はからずも、その先生にお会いできた上に、こうして、その担当者さんにまでお会いできるなんて、わたし、なんだか夢見心地だわ」
そう言って、結花は、まん丸い顔をいっそう丸くして微笑んだ。
「そうですか、先生の作品のファンの方ですか。それはそれは――わたくし、こういう者です」
浩子も、結花に名刺を差し出し、言葉をつづけた。
「山本浩子と申します。思いがけないところで、こうして、先生のファンの方にお会いできて、わたしこそ光栄ですわ」
広島の、それも、何のゆかりもない宮島のホテルのロビーで、こうして、東京在住の二人が名刺を交わしている。
人生って、ときどき、こういう思いがけない石ころに躓くことがあるから、面白んだよね。
そんなことを思いながら、蓮は、若い二人の様子を目を細めて眺めていた。
つづく
だしぬけに、蓮を呼ぶ声がした。ホテルのロビーに、若い女性が卒前として現れ、蓮に手を振っている。
「遅くなりまして申し訳ございません」
息を切らしながら、その女性は、蓮に歩み寄ると、深々と首を垂れた。
「あら、ヒロちゃん」
ソファーに腰を下ろしていた連は「ヒロちゃん」と呼んだ女性を見上げて、優しい笑顔で言った。
「気にしなくていいのよ。全然待ってないもの。それより、遠路はるばるご苦労様」
「そ、そうですか……」
ふう、よかったぁ、というふうに、安堵の息をついた彼女は一転、その顔をややしかめて言った。
「社を出ようとしたら、急に、編集長が呼び止めるんです……それで、乗車するつもりでいたのぞみに乗り遅れちゃって」
蓮が「ヒロちゃん」と呼んだ彼女は、東京のとある出版社の編集者。名前を山本浩子といって、昨年の春から、蓮を担当している。
おや? その浩子がふいに、首をかしげた。てっきり、蓮ひとりが待っていると思いきや、存外、連れがいたからだ。そこで浩子は、この人、だれですか、という目をして、蓮に訊いた。
あ、この人ね――すぐさま、浩子の目配せの意味を察した蓮は、さっそく、彼女に、結花を紹介する。
「彼女は近藤結花さん。テレビで芸能レポーターをされてるそうよ。きょうも、あるテレビ番組のお仕事で、この宮島にいらっしゃってるんですって。しかも、わたしと同様に、このホテルに宿泊されてるの。なんでも彼女ね……」
そこで言葉を区切った蓮は、いかにも嬉しそうに頬をほころばせて、言葉を継いだ。
「わたしの作品の大ファンらしいの。わたし、それがとってもうれしくてね。それで、ヒロちゃんを待っている間、よもやまの話をし合ってたところなの」
めずらしく、連は饒舌だった。
それもムリはないなぁ、と浩子はしみじみと思う。このコロナ禍の中、出版記念などのサイン会は軒並み中止になっていた。そして何より、本人自身が新型コロナに感染し、こうして命に別状はなかったものの、その後遺症に思いのほか悩まされていた。それで、ファンと交流するのは久方ぶりのことでもあった。
やっと、あたりまえの日常が戻ってくれたのね――その実感をひしひし嚙みしめながら、浩子はふと、目の端で結花を覗いた。
言われてみれば、この人、たしかにテレビで見かけたことのある顔だわ――たぶんその想念が、顔に出ていたのだろう。
「あら、嬉しいわ。わたしのことご存知のようね……あ、ちょっと待って」
結花はそこで言葉を切ると、「はい、これ名刺」と浩子に差し出し、つづけて言った。
「わたしね、安河内連先生の作品の大、大、大ファンなの。はからずも、その先生にお会いできた上に、こうして、その担当者さんにまでお会いできるなんて、わたし、なんだか夢見心地だわ」
そう言って、結花は、まん丸い顔をいっそう丸くして微笑んだ。
「そうですか、先生の作品のファンの方ですか。それはそれは――わたくし、こういう者です」
浩子も、結花に名刺を差し出し、言葉をつづけた。
「山本浩子と申します。思いがけないところで、こうして、先生のファンの方にお会いできて、わたしこそ光栄ですわ」
広島の、それも、何のゆかりもない宮島のホテルのロビーで、こうして、東京在住の二人が名刺を交わしている。
人生って、ときどき、こういう思いがけない石ころに躓くことがあるから、面白んだよね。
そんなことを思いながら、蓮は、若い二人の様子を目を細めて眺めていた。
つづく