第34話

文字数 2,230文字


 
「女優のな、恵風涼さんがな……」
 東葛西警察署の取り調べ室――。
 近藤結花殺害の容疑で逮捕された、不動産会社社員の橋本修二。
 その彼の顔をまともに見すえて、警視庁捜査一課の矢吹警部が取り調べを続けている。
「……いかにも腹立たしいというような口ぶりで、こう言ってたって、安河内先生がおっしゃるんだよ。もう橋本さんには金輪際お金は渡せないって、そういうふうにな」
 橋本は矢吹の真っ直ぐな眼差しから目をそらすように、うつむき加減でそれを聞いている。
「涼さんのそのことばを聞いてやっと、すべてのことがわかったって、安河内先生、おっしゃるんだ。つまりは、お前が犯人だってことがな」
 それを聞いた橋本は一瞬顔をあげて、矢吹をチラ見した。その視線を受け流して、矢吹は、ことばをつづける。
「犯人にとって不都合な真実……事件の背後には必ず、それが潜んでるもんだ。この事件の場合は、毎月きまった金が手に入らなくなることがそれにあたる、というふうに、安河内先生は睨んだらしんだ。どうだ、ちがうか、橋本?」
 またもや、橋本はうなだれて、口を閉ざして何も答えない。
 
 するとそのとき――トントンと、取調室のドアがノックされた。
 少し間をおいて、ドアが小さく開き、宇喜多主任がそこから顔を覗かせて、「警部、ちょっといいですか」と声をかけた。
 矢吹は「ああ」と鷹揚にうなずいて、おもむろに椅子から立ち上がると、例のガニ股でのっしのっしと取り調べ室から出ていった。
 わずかな間のあとで、ふたたび、部屋に戻ってきた矢吹は冷ややかな笑みを浮かべて、相変わらず、しゅんとうなだれている橋本を見て、こう言った。
「橋本さんよう、判明したぜ。どうして、おまえが毎月、百万もの大金が必要だったか。その理由がな、ふふふ」
 それを聞いた橋本の顔から、サッと血の気がひく。
「おまえ、やばい連中から金を引っ張っちまったんだってな。それで、やつらに毎月高い利子を請求されて、往生してるらしいじゃないか、ええ、橋本さんよ、どうなんだ」
 橋本は、ただうなだれて、口をつぐんでいる。
 そんな彼に鋭い一瞥をくれた矢吹は、ふんと鼻で笑って、それから、すげない口調で言った。
「競馬に入れ込んで、そうとうやられたっていうじゃないか。それで、のっぴきならない状況に陥ってしまって、やむなく、ヤミ金に手を出しちゃったんだってな。うちの捜査員が、すべてを調べあげてくれたよ。そんなときだったんだろ。はからずも恵風涼さんから、相談を持ちかけられたのは。渡りに船とばかりに、さぞかし喜んだことだろうな、橋本」
「……う、ううう」
 橋本がうめく。いろんな感情が込み上げてくるらしく思われる。それを、冷ややかな笑みを浮かべて見ながら、矢吹が言う。
「そうした僥倖がめぐってきたときだったんだろ、芸能レポーターの近藤結花が恵風涼の隣室を借りちゃったのは。そうとう気を配っていたというのにな。焦ったんだろうな。なんといっても、それが恵風涼さんにばれっちまったら、せっかく契約した百万もの大金が手に入らなくなるんだからな。それは、すなわち、やばい連中への返金が滞ってしまうということだ。そうなったら、大変だ。会社にバレてしまう懸念すらあるからな、競馬で大借金をつくってしまった事実がな。何が何でも、それは避けなきゃならない。だから、彼女が邪魔になっちまった。それで、殺害してしまったんだよな、そうだろう、橋本さんよう」
 
「ち、ちくしょう……」
 俯き加減で、橋本が口を開く。
「あ、あの、あの作家のおばさんが余計なお節介を焼いて、芸能レポーターの彼女を恵風涼の隣室に入居できるようにしさえしなければ、こ、こんなことには……」
 ドン!!!
 橋本のことばを遮って、いらだちをぶつけるように、矢吹が机の上を手のひらで叩いた。
「だからといって、人を殺めていいってことにはならねえだろうが、このすっとこどっこいめが!!」
 橋本の肩が、ぴくんと小さく跳ね上がる。
 その音と声とにおののいた橋本は、いっそう、しゅんと肩をすぼめて、うなだれてしまった。
「そればかりじゃねえ」
 ドスの効いた低い声で、矢吹が言う。
「今度は、安河内先生までもが邪魔になった。それで、しかたなく宮島で……」
 うなだれたまま、橋本が口を開く。
「……あ、あの朝、ホテルのわたしの部屋のドアの、その下の隙間から、一枚の紙が差しこまれていたんだ……近藤結花さんを殺害したのは、あなたね、って書かれた紙が……す、すぐにわかった、だれが、それを差し入れたのか」
「そこで、ホテルの周りを必死に探した。そしたら、人気のないあの場所で、先生を発見したんだな」
「……ああ」
「それで、近藤結花さんを殺害したハンマーを使って先生も殺害しようとした、ってことでいいんだな、橋本」
「…………」
 無言でうなずく、橋本。
「ところで」
 一瞬、矢吹はそこで話題を変えて、橋本に、こう尋ねた。
「どうして、あのハンマーを捨てないで持っていたんだ?」
 しばらくの間があって橋本が――。
「……凶器が発見されなければ、捜査が進展しないと思った。それで、ビジネスバッグに忍ばせて肌身離さず持ってた。でもあの紙を見て、思わずカットしてしまって……それで、後先考えずにハンマーをブルゾンの内ポケットに入れて、あのおばさんの後をつけていたんだ……そ、そしたら、あ、あんたが」
 橋本はそこでことばを切って、いかにも口惜しそうに唇を嚙みしめた。
 
つづく
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