第21話

文字数 1,697文字

 ややあって、蓮が、おもむろに口を開いた。
「わたしね、宮島のホテルで結花さんに、ある番組以外はテレビを観ないのよ、って言ったの。そのある番組を、彼女がどうして知ったのか……それは、いまとなったら永遠に知る由もないんだけどね……」
 そこで蓮は言葉を区切ると、バックの中に手を入れて封筒を手にすると、そこから一枚のチケットを取り出した。それから、ふたたび、ことばをつづけた。
「結花さんが言ったのよ。わたしの願いをかなえてくれた暁には、これを差し上げますわ、ってね」
 そう言って、蓮は気恥ずかしそうに、手にしたチケットを浩子に見せた。
 見ると、『立川談五楼独演会』――そう記してある。
 これは? 浩子が目で訊く。
「これはいま、チケットがもっとも取れない落語家と言われている、立川談五郎楼の、その独演会のチケットよ」
「あ、この人見たことありますわ。たしか、汐留のテレビ局でやってる落語番組の、その司会者の人ですよね。へぇ、そんなに人気が高い落語家さんだったんだ、この人」
 浩子が、妙に感心する。たぶん彼女は、それほど、落語に興味がないのだろう。
「情けないんだけどね、わたし心が動いちゃったの。この落語家の新作落語がどうしても生で聞きたかったもんだからね。それで、東京にいる顧問弁護士に頼んで、賃貸契約してもらっちゃったのよ……あのマンションの部屋のね」
 そういうことだったんだ――なるほど、と浩子は腑に落ちた。
 先生は、そのことに忸怩たるものがあったのか、と。それが、気恥ずかしくて言い淀んでいたのね、とも。
 でも――ふと、浩子は思った。
 だからといって、わたしは先生をキライになったりはしませんよ。もちろん、先生の作品もね、というふうに。
 そう思った浩子は「先生!」と、彼女のか細い身体の、どこにそういう気力がみなぎっているのかと首をひねりたくなるほど、毅然とした顔と口調で蓮を呼んだ。
「な、なに?」
 どうした、ヒロちゃんと蓮は内心たじろぎながら、尋ねた。
 ふっと、口元の端をゆるめて、浩子が言う。
「わたしたちも、虎穴に入らずんば虎子を得ず作戦でいきましょうよ、先生」
 
 任意同行された小西は、容疑不十分ということで、その日のうちに釈放された。
 すわ、犯人逮捕か!! 
 捜査本部はにわかに色めき立ったぶん、かえって、ひっそり閑と静まり返ってしまった。ことに、小西の取り調べにあたっていた宇喜多は憔悴しきっていた。
 そんな中、俄然やる気を出していた捜査員もいた。 
 それは、恵風涼のマンションや死体遺棄現場周辺の防犯カメラの解析にあたっていた、あの小川班と住吉班の刑事及び科捜研の面々である。
 エースの森村陽子を新型コロナウイルスで欠いた科捜研の面々は、それにもめげず黙々と解析にいそしんでいた。
 恵風涼が男と連れ立ってマンションの出入りしているというような、決定的な画像は見つからなかった。だが、深夜に黒いキャップを目ぶかにかぶりマンションを出入りしている怪しい男という、そのような画像は見つけていた。
 男の、はっきりとした人相までは判然とはしなかった。けれど、およそ身長170㎝ぐらいの若い男、というのは判明していた。
 小川班の刑事たちはその写真を手に、恵風涼のマンションの周辺や近藤結花のアパートの周辺の聞き込み捜査に奔走していた。
「こうなったら、やっぱり恵風涼を任意で引っ張ってきて取り調べるしかありませんよ」
 そんなふうに、山縣管理官に泣きついたのは、小川班の若い刑事らだった。
「あんな曖昧な写真で聞き込みに走り回っても、いっこうに埒が明きませんよ。ですから、彼女をここにしょっ引いてくるのが、一番手っ取り早い方法だと思うんですよ、管理官」
 だからといって――そう思って、山縣は躊躇する。
 なんといっても、恵風涼は押しも押されもせぬ国民的女優なのだ。
 それを思えばうかつなことはできんだろう、と。
 それに――苦虫を嚙み潰したような顔で、山縣は思う。
 あと、2、3日もすれば、矢吹が戻ってくる。そうすれば、ほかに手の打ちようもあろうというもの。だから、それまでの我慢だ、というふうに。
 
 
つづく
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