第22話

文字数 2,375文字



 
 恵風涼が暮らしている広尾にある高級マンションの、ここは、その隣室。
 つまりは、かつて蓮が借りていて、近藤結花に頼まれ再度、賃貸契約を結んでやった、あの部屋だ。
 その近藤結花が不慮の死を遂げたという連絡を受けて、急遽広島から上京してきた蓮は、危険を顧みず、この部屋に留まって近藤結花の無念を晴らそうと、編集者の浩子と作戦を練っていた。
 そんななか、浩子が唐突に、こう切り出した。
「わたしたちも、虎穴に入らずんば虎子を得ず作戦でいきましょうよ、先生」
 それを聞いた蓮は、浩子に、こう確認をしたのだった。
 「つまりヒロちゃんは恵風涼に直接会って、男の件を聞き出そうじゃないかっていうのね」
「はい、先生」
  あら、そう、と蓮は心の中でうなずくと、改めて、浩子の横顔をチラ見する。
 にしても、と蓮は舌を巻く。
 人好きのする清楚な顔立ちをしている割には、けっこう大胆なことを考えるのね、この子、そう驚くやら、呆れるやらして。
 だからといって、おいそれとはね――ため息交じりに、蓮は躊躇する。
 恵風涼には男がいる。彼が、襲ってこないという保証はどこにもない。それで、ヒロちゃんに万が一のことがあったら……。
 それを懸念するから、蓮はためらうのだった。
 とはいえ、矢吹警部が、新型コロナウイルに感染して頼りにならないいま、このまま指をくわえているだけでは、いっこうに埒が明かない。それでは、近藤結花に対して、自分も立つ瀬がない。
 なら、どうする、と蓮は自問する。
 この際、背に腹はかえられないわね、と蓮はとうとうほぞを固めた。
 ひとたび、そう決心してしまうと、蓮はもう、居ても立っても居られなくなった。
「わかっわ、ヒロちゃん。行くわ」
 そう言うが早いか、蓮は恵風涼の部屋の玄関の前に立って、なんのためらいもなく、テレビドアフォンのチャイムを鳴らしていた。
 
 
 いったい、だれ? こんな夜分に……。
 大義そうにソファーに身を投げ出していた恵風涼はそう思って、眉をひそめた。
 身も心もクタクタだった。ドラマの撮影に女性誌の取材、グラビア誌の撮影に新作映画の打ち合わせ。引きも切らさずスケジュールが入り、きょうも目が回る忙しい一日だった。
 勘弁してほしいわ――そう涼が思うのも、だから無理はなかった。
 でも、ちょっと待って――ふと、涼は首をひねる。
 このマンションのセキュリティ対策は万全なはず。なのになぜ、アポもなしに、うちの玄関のテレビドアフォンが鳴らせるというの、そう不審に思って。
 すると追い打ちをかけるように、ピンポーン、とまた耳障りなチャイムが鳴った。
 これは、アイツじゃ、ない。アイツはこんや、仕事が遅くなると言っていた。
 だとしたら、いったい、だれ⁈
 不思議に思う感情が烈しく涼を突き動かす。
 するともういけない。もどかしくなった涼は、ソファーから、くたびれた身体をよっこらしょと、内心苦笑洩らしながら起こすと、テレビドアフォンのモニターにおもむろに歩み寄った。
 うん⁈ このおばさん? 
 ここに、どうして、この人が、という疑問と、この人が、いったい、わたしになんの用があるというの、という好奇心とが一瞬、涼の中でせめぎ合う。
 といって、勝負はあっけなかった。
「安河内先生が、わたしになんのご用かしら?」
 にわかにコードレスフォンを手にした涼はもう、そのように尋ねていた。
「あら、出てくれたのね、うれしいわ。国民的女優の恵風涼さん」
 な、なによ、このわざとらしい口ぶりは?
 あ、――ふいに、涼は思った。
 このおばさん、わたしの素性を知ってるんだ、というふうに。
 一瞬、涼の頬がこわばる。
 それもそのはず。なにしろ、安河内蓮は、恵風涼に男がいるのを知っているのだから……。
 これは、恵風涼にとって、きわめて不都合な真実であった――。
 がしかし、そこは彼女も女優である。すぐに、だから度胸を決める。そして、蓮に、こうカマをかけた。
「あら、先生。わたしが、国民的女優だと知って、サインでももらいにいらっしゃったんですか?」
 おっと、そうくるか。
 蓮は内心苦笑を洩らして、絶句。
 一瞬、間の悪い沈黙。
 だが、蓮も、作家である。となれば、機転が効く。わずかな間のあとで、気を取り直すと、蓮も、こうカマをかけるのだった。
「ええ、実はわたし、あなたが女優だったということを知ったの。それも、つい最近ね。だからといって、サインなんてね。わたしだって、いちおう、有名人ですから。それより、あなたが女優だと知れたら、なにか不都合なことでもあって?」
 これには、涼も二の句が継げない。
 かといって、涼も負けてはいない。舌打ちしたいような気分をねじ伏せ、あくまでも冷静な口調で応じた。
「べつに不都合なんてないわ。それより、こんな時間に、なんの用かしら?」
 こんな時間――それを強調するように、涼は言った。もちろん、不謹慎ですよ、というのを暗に示すように。
「もちろん、不謹慎だというのは、承知の上だわ」
 蓮はそう前置きすると、もうひとつ重ねて、不謹慎なことを言った。
「それを承知の上で、あえてお願いがあるの。ほら、こんな形で話をするのもなんじゃない。なので、ちょっとおじゃまさせてもらって、お話するっていうのはどうかしら?」
 ほえ! ほんとうに不謹慎だよ、このおばさん。
 そう思って、涼は顔をしかめて見せる。だが、いかんせん、テレビドアフォン。相手に、涼のその顔が見えるはずもない。
 だとしたら、どうする? 
 涼は突然、考える。
 しかたないな――しばらく考えて、涼は観念した。
 こうなったら、へたに隠し立てするより、あえて積極的に、アイツのことを説明しておいた方がいいかも、というふうに、考えたからだ。
「わかったわ……」
 モニターを睨みつけるようにして、涼は応えた。

 
つづく
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