第14話

文字数 2,479文字


 矢吹の、このことばととともに、緊張していた室内の空気が一瞬、ゆるんだ。
 それにつられるようにして、浩子の口元も、ふっとゆるんだ。でも蓮の手前、気まずいと思ったか、すぐに浩子は真顔になって、それから、口を開いた。
「あのう、それについてですが、恵風涼さんの隣室――つまり、そこはかつて先生が借りてらっしゃったお部屋ですが、そこを借りて涼さんのマンションに住居する、それが虎穴に入らずんばになります」
 ここまではどうでしょう、という感じで浩子は、矢吹に目配せする。
 矢吹は仏頂面で、こくり、とうなづく。
「次にですね、その借りた隣室で暮らしながら折りを見て、たしかな証拠を握るというのが、虎児を得ることらしいんです」
「……なるほどね」
 鷹揚に、矢吹はうなずいてから、言った。
「スクープの信憑性を高めるために、近藤さん自らが虎の穴に入って、虎の子を捕まえようとした、ってことですね」
「は、はあ、まあ、そういうことですね……」
 いささか違和感を覚えた浩子だったが、いったん、それはうっちゃっといて、話を先に進めた。
「ですが、あそこは超がつくほどの高級マンションです。なので、近藤さんのお給料じゃとてもじゃないですが借りるのはムリです。そこで近藤さんは、番組のプロデューサーに頭を下げたというんです」
 近藤結花とのやりとりを、蓮から逐一報告を受けていた浩子はそこまで言って、そうですよねぇ、先生、と蓮の耳元で囁やいた。
 ええ、という感じで、蓮が小さくうなずく。それを確認してから、浩子は言った。
「その要望に対しては、プロデューサが首を縦に振ってくれたみたいです。ところが、不動産屋さんがなぜか、首を縦に振らなかったというんです」
「ふ、不動産屋……が、ですか」
 腑に落ちないという顔で、矢吹は首をかしげる。
「安河内先生が出ていかれて、しばらくの間、家賃収入が滞っていたわけでしょ。わたしのようなオンボロアパートの定額家賃ならともかく、高級マンションの超高額家賃ですよ。それを払ってくれる借り手が現れたんです。なのになぜ、不動産屋は首を縦に振らなかったんでしょう……」
「そ、それは、わたしにはわかりかねます。とにかく、そういう事態が生じたので、結花さんはやむにやまれず先生に相談されたということです」
 それでよろしかったですよね、先生、というふうに、浩子が蓮に尋ねる。
 尋ねられた蓮は「ええ……」と力なく、うなずいた。
 
 
 そこは長年、かつて自分が借りていた部屋だった。だから、何とかなるんじゃないだろうか。とでも、思ったのかな、安河内蓮は――。
 それを念頭に、矢吹が訊く。
「そこで安河内先生が、近藤さんのためにひと肌脱がれた、ってわけですね」
 矢吹は、ふさぎ込んでいる蓮を目の端で覗きながら、どちらに訊くともなく、訊いた。
 浩子は蓮をチラ見して、彼女の代わりに説明した。
「ええ……なぜ、先生が近藤さんのためにひと肌脱ごうと思われたのか――実をいうと、そこまでわたしは聞いてないのです。ただ、わたしが思うのは、たぶん先生は……」
 浩子はそこで、言い淀んだ。
 たぶん先生は、なんです――何分、せっかちな矢吹だ。すぐに、そう促そうとした。
 しかしながら、矢吹は黙って、見守ることにした。
 近藤結花の非業の死。蓮にとっても、浩子にとっても、そのショックたるや、そうとうなのものがあったにちがいない。
 そうした人の心の機微がわからない、矢吹ではない。だから、ここは黙って、見守ることにしたのだった。
 ほどなく、やっと気を取り直した浩子が、おもむろに口を開いた。
「り、理由はともかく、先生は、ひと肌脱いだことに、どうやら、責任を感じていらっしゃるようなのです。だからこうして、取るものも取らずに上京されたんだと、わたしは思うんです」
 たしかに、その疑問が湧くよな。安河内蓮はなぜ、近藤結花のためにひと肌脱ごうとしたのか、という疑問がな……。
 矢吹は首をひねりながら、蓮に一瞥をくれる。けれどすぐに内心苦笑を洩らす。
 こりゃ、まだ、尋ねるどころの騒ぎじゃねぇな、そう思ったからだ。
 するとそのとき、別の疑問がふと、矢吹の頭をかすめた。彼は決定的にせっかちである。かすめた瞬間、彼はもう、単刀直入に、その疑問を浩子にぶつけていた。
「それはそうと、近藤さんはなぜ、番組のプロデューサーに頭をさげたんでしょうね。わたしだったら、自分が所属しているプロダクションの社長に下げますけどね」
 矢吹は思っている。一介のプロデューサーの一存で、高額家賃の支払いの決済ができるものだろうか、と。それでなくても、いまは製作費が乏しい時なのに、とも。したがって矢吹は、そういう意味で訊いている。
 訊かれた浩子は「は、はあ……」と、戸惑い気味にうなずいた。
 そんなこと、わたしに訊かれましても、わかりませんわ、と言いたげに……。
 人の心の機微がわからない矢吹ではなかった。しかし一方で、彼は決定的にせっかちな男でもあった。
 どうやら、今回はそっちの方が優ったらしい。問わず語りで、矢吹がつぶやく。
「なるほど、スクープを握れば番組の視聴率につながります。それからすれば番組のプロデューサーっていうのも、あながちうなずけない線じゃありません。でもですよ、番組の製作費に高級マンションの高額家賃っていうのはどうなんでしょう。そんなことまでしてスキャンダルを暴いたら、かえって視聴者の反感を買うんじゃないかと、わたしは思うんです。それにスポンサーだって、いい顔をしませんよ。その点、いかかが思われます」
「は、はあ……それは、まあ、そうでしょうねぇ」
「でしょう。わたしだったら、こういう場合、プロダクションの社長が出してくれた費用で借りた部屋の隣人が、たまたま人気女優だった、っていうストーリーを考えちゃいますけどね……」  
 と、そこまで言って矢吹は「あ」という顔をした。
 人気作家の前で「ストーリーを考えちゃいます」などという言葉を使ったのは、ちょっと不謹慎だったかな、と内心忸怩たる思いを抱いたからだ。
 
 
つづく
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