第33話

文字数 2,346文字



 
 ではどのようにして矢吹は、橋本が、近藤結花殺害の犯人だと特定したのだろうか。
 という疑問は、橋本でなくてもだれしもが、その胸中に蟠踞(ばんきょ)することだと思われる。
 実をいうと、そのきっかけは、安河内蓮からかかってきたゆうべの電話にあったのである。
 というわけで、蓮が、矢吹に電話をかけてきたときまで時計の針を巻き戻してみることにしよう。
 
 ゆうべ――電話で、蓮は矢吹に、こう告げていた。
「警部、わたし、犯人がわかっちゃったかも」――というふうに。
 それを聞いた矢吹が、彼女に、その所以を尋ねたのだった。
 蓮が口を切る。
「警部が新型コロナウイルスに感染されて、事件の捜査が膠着状態に陥ってしまったでしょ」
 そう言ったあと、蓮は取りとめもなく語った。
「その間、わたし、すごくじれったい思いをしていたんです……だからといって、素人の分際で勝手な真似をしちゃぁいけないっていうのは重々承知していましたよ。ですがわたし、居ても立っても居られなくなっちゃったんです。それで、わたし先日、後ろ髪を引かれる思いをねじ伏せて、とうとう、恵風涼さんのお宅を訪ねてしまったんです……」
 いかにもバツが悪そうに、そう蓮は言うと「どうしても、近藤結花さんの無念が晴らしたかったものですから……」と、いちおう、弁明を述べた上で、こうつづけた。
「わたし、疑ってたじゃないですか。てっきり、涼さんが付き合ってる男に指示を下して近藤結花さんを亡き者にしたものだと……でもそれは、見当ちがいでした。だって、彼は、涼さんの弟さんだったんですもの」
 蓮はそう言って、頬に含羞の色を浮かべると、なさけなさそうな息をついた。
 わずかな間のあとで、蓮は「そればかりではないんです……」と言って、こうつづけた。
「涼さんは近藤結花さんの存在すら知らなかったって言うんです。それなのに、わたし、心底涼さんを疑ってしまって……そのことについては素直におわびして、わたし早々に、おいとましようとしたんです。それに、涼さん言ってました。明日はロケがあって朝が早いって。なので、わたし帰ろうとして、玄関に向かいかけたんです。するとそのとき、涼さんがポツリつぶやいたんです。それにしても、合点がいきませんわ、って……」
 蓮はそこで、いったん、ことばを切って、喉を鳴らした。どうやら、話が核心に迫ってきたらしい。
 蓮が言う。
「涼さん、何が合点がいかないかを、こう言っていました。だってわたし、そうならないように、橋本さんと契約を結んでいたんですから、って」
「そ、そうならないように、契約⁈ 橋本と?」
 思わず矢吹は聞いてしまう。
「それって、どうならないようにするっていう契約ですか、先生」
 蓮はけれど、少し勿体をつけるように口をつぐんだ。
 黙って、矢吹は、蓮の次のことばを待った。そうしながら、矢吹はふと、目の前の壁に貼ってあるポスターに目をやった。
 そのポスターのなかで、女優の橋本環奈が、素敵な笑顔を浮かべて、矢吹を見ていた。
 
 しばらくの間をおいてから、蓮が口を開いた。
「涼さんの隣室はいま、空き部屋になっています――つまり、わたしが以前住んでいた部屋ですね。橋本との契約というのは、そこに、マスコミ関係者とか雑誌関係者とか、とにかく、涼さんのプライベートを探るような人は一切入居させないというような、そんな契約だったらしいんです」
「それは、弟さんの存在を、週刊誌の記者なんかに穿った見方されないようにするためでしょうな」
「たぶんそうでしょうね」
「それに対して、橋本は、どう応えたんでしょう、先生?」
 矢吹が尋ねる。
 蓮が返す。
「橋本は、難しいけど、やってみようと、了承したというんです。ただし、ひとつ条件があると、付け加えたって言うんですね」
「ひとつ条件?」
「ええ」
「それは、どんな条件でしょう?」
「お金です……お金を要求したらしいんです、橋本は」
「か、金を⁈」
 素っ頓狂な声で矢吹は言うと、こうつづけた。
「で、橋本は、いくらほしいと?」
「ひと月、百万。それも、会社には秘密ということで。つまり、いま流行りの裏金って奴ですね」
「あはは、流行りって、先生。ま、たしかに検察は頑張ってるようですがね。それにしても、ひと月、百万って……わたしのひと月分の給料よりずっと多い……あ、いや、と、とにかく、ずいぶんと望外な金額ですな」
「ええ、わたしもそう思いました。でもそれを訊く前に涼さんが、それなのに、どうして、芸能レポーターが隣室を借りることができたの……それって、契約違反だわ。もう橋本さんには金輪際お金は渡せないわ、って大変ご立腹なんです。わたし、すっかりうろたえちゃって……ほら、だって、結花さんが入居できるように骨を折ったのは、だれあろう、このわたしですから」
 そこまで言って、いったん、ことばを切った蓮は、肩でひとつ息をついた。それからまた、話しはじめた。
「一瞬、居心地の悪い沈黙がありました。その沈黙を破って、涼さんが言ったんです。わたし、もう寝なくちゃ、寝不足になるとお化粧の乗りが悪くなるから、って。なんたって、お肌は女優さんの命ですからね。それを思えばこれ以上長居はできないなって、わたし思ったんです。ですから、そのあとの話はあきらめて、わたし、涼さんの部屋をあとにしたんです。その日は、編集者の山本浩子さんも一緒だったもんですから、そそくさと隣室に戻って、いま耳にした話について、二人でとことん話し合ったんです。それでやっと、わたし――すべてのことがわかったんです」
「つまり、橋本が犯人ってことがですか?」
「ええ」
 力強くうなずいた蓮は「ですから、あす、それを確かめてみようと思うんです」というふうに、矢吹に告げたのだった。
 
 
つづく
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