第32話
文字数 2,059文字
東葛西警察署の取調室――。
「では、両手を前に出してもらおうか」
ひどく冴えない顔つきをしている男に、矢吹警部がそう促した。
ガシャリ――差し出された男の手首に、仮借なく、手錠がはめられた。
「午前二時三十四分、近藤結花殺人容疑で、橋本修二を逮捕!!」
毅然とした顔と口調で、そう矢吹は告げると、不動産会社社員橋本修二の身体に縄をかけた。
このように、遠方で身柄を拘束された容疑者の護送は、もっぱら新幹線や飛行機などの公共の乗り物が使用される。新幹線であれば、広島駅から東京駅までの所要時間は、凡そ四時間半くらい。
ただ、今回は、殺人事件である。それも、ひときわ酸鼻を極めた――。
こういう場合の護送は、通常、車が使用される。
広島の県警本部から、東京の捜査本部のある東葛西警察署までの距離は、凡そ900キロ。かなり遠いように思えるが、それでも、パトランプを点滅させっぱなしで、何のトラブルもなく高速道路をひた走れば、凡そ11時間くらいで到着できる距離ではある。
ここで、車と新幹線の所要時間を比較してみよう。すると、凡そ六時間半のタイムラグがあることがわかる。
実は矢吹は、このタイムラグをうまく利用した。そこが、さすが警視庁の切れ者デカ、矢吹の真骨頂である。
では、矢吹は何をしたのかというと、こうだ。
自身が東京に到着するまで、たしかに橋本が犯行に及んだという証拠を掴み、早出回しに逮捕後の勾留がスムーズにいくように図っていたのだ。
宇喜多主任と一緒に、矢吹は、宮島へと飛んでいた。
宮島で、矢吹は橋本がブルゾンの内ポケットに隠したハンマーを取り上げていた。それを、矢吹は宇喜多主任に預けると、「新幹線で先に東京に帰っておけ」と指図し、さらに、こう指示を出していた。
「東京に着いたらその足でハンマーを至急、科捜研に持っていくんだ。オレが捜査本部に着くまでには、何としてでも確固たる証拠がほしい。森村くんに、オレがそう言ってたと伝えておいてくれ。頼んだぞ、宇喜多」
矢吹は確信していた。このハンマーこそが、近藤結花を殺害した凶器だということを――。
橋本を護送する広島県警の車両が、浜名湖パーキングエリアあたりを通り過ぎたころだった。
唐突に、矢吹の背広の内ポケットに入っている携帯電話が、ブルブルと震えだしたのは――。
「矢吹だ」
「陽子です」
高揚した声で、森村は、矢吹に告げた。
「警部、警部の見立て通りでしたわ。あのハンマーから近藤結花さんの血痕が見つかったんですから!」
「そうか!! やったな。ありがとう、森村」
そう礼を陳べた矢吹は、さっそく、東葛西警察署で待機している宇喜多主任に連絡を入れた。
「宇喜多、科捜研からいま連絡が入った。橋本が手にしていたあのハンマーから、近藤結花の血痕が見つかったってな」
「ほ、ほんとうですか、警部」
「ああ、ほんとうだ。宇喜多、だから山縣管理官に逮捕状請求の書類を大至急作成してもらよう手配してくれ。出来上がったら、一目散に、それを持って裁判所に向かうんだ。頼んだぞ、宇喜多」
「りょ、了解です」
間髪を入れず、宇喜多がうなずく。すると彼は、さらにつづけた。
「それにしても、あの虫も殺さないような顔をした橋本が犯人とは思いもよりませんでしたよ」
「そういえば、宇喜多はかねて、聞き込みのために、橋本に会っていたんだっけ」
「ええ、そうなんですよ。少なくとも、そのときの印象では、彼が人を殺めるような男には到底見えなかったんですけどね」
「そうか。しかし、まあ、あれだ。わたしという一種の現象は、わたし自身にとっても不可解なものらしいからな」
「なるほどね……いまは、自分というものがわからない時代のようですからね」
「ああ、本質が定まっていないいまの時代は、だれもが、『思いがけない自分』と出会う可能性を持ってるんだ」
「なんだか、ややこしい時代に、われわれは生きてるようですね。それでも、まあ、これで、や、やっと……」
震えていた。宇喜多の唇からこぼれ落ちる、そのことばが。
彼はおそらく、不条理のうちに殺害された近藤結花の無念に、とりわけ心を痛めていたのであろう。
それほど、優しい男だったのだ、宇喜多という刑事は――。
「そうだ、やっと、近藤結花の無念を晴らすことができるんだ。これで彼女も、ようやっと成仏できるだろうよ」
「ほ、ほんに……ほんに、よかった」
鼻をすすりながら、宇喜多がつぶやく。
鬼の目にも泪であろうか。幾分、矢吹の目も赤くなっていた。
そうこうしているうちに、逮捕状請求の書類が出来上がった。
それを受け取った宇喜多は、一目散に、裁判所へと向かった。
そして彼は、裁判所から発行された逮捕状を手に捜査本部に戻ると、橋本を乗せた護送車が到着するのをいまかいまかと待ちわびるのだった。
そのころ、護送車のなかで、矢吹が話す電話の内容を聞いていた橋本が、蚊の鳴くような声でポツリとつぶやいた。
「けれど、それにしたって、どうして、わたしってバレちゃったんだろう……」
つづく
「では、両手を前に出してもらおうか」
ひどく冴えない顔つきをしている男に、矢吹警部がそう促した。
ガシャリ――差し出された男の手首に、仮借なく、手錠がはめられた。
「午前二時三十四分、近藤結花殺人容疑で、橋本修二を逮捕!!」
毅然とした顔と口調で、そう矢吹は告げると、不動産会社社員橋本修二の身体に縄をかけた。
このように、遠方で身柄を拘束された容疑者の護送は、もっぱら新幹線や飛行機などの公共の乗り物が使用される。新幹線であれば、広島駅から東京駅までの所要時間は、凡そ四時間半くらい。
ただ、今回は、殺人事件である。それも、ひときわ酸鼻を極めた――。
こういう場合の護送は、通常、車が使用される。
広島の県警本部から、東京の捜査本部のある東葛西警察署までの距離は、凡そ900キロ。かなり遠いように思えるが、それでも、パトランプを点滅させっぱなしで、何のトラブルもなく高速道路をひた走れば、凡そ11時間くらいで到着できる距離ではある。
ここで、車と新幹線の所要時間を比較してみよう。すると、凡そ六時間半のタイムラグがあることがわかる。
実は矢吹は、このタイムラグをうまく利用した。そこが、さすが警視庁の切れ者デカ、矢吹の真骨頂である。
では、矢吹は何をしたのかというと、こうだ。
自身が東京に到着するまで、たしかに橋本が犯行に及んだという証拠を掴み、早出回しに逮捕後の勾留がスムーズにいくように図っていたのだ。
宇喜多主任と一緒に、矢吹は、宮島へと飛んでいた。
宮島で、矢吹は橋本がブルゾンの内ポケットに隠したハンマーを取り上げていた。それを、矢吹は宇喜多主任に預けると、「新幹線で先に東京に帰っておけ」と指図し、さらに、こう指示を出していた。
「東京に着いたらその足でハンマーを至急、科捜研に持っていくんだ。オレが捜査本部に着くまでには、何としてでも確固たる証拠がほしい。森村くんに、オレがそう言ってたと伝えておいてくれ。頼んだぞ、宇喜多」
矢吹は確信していた。このハンマーこそが、近藤結花を殺害した凶器だということを――。
橋本を護送する広島県警の車両が、浜名湖パーキングエリアあたりを通り過ぎたころだった。
唐突に、矢吹の背広の内ポケットに入っている携帯電話が、ブルブルと震えだしたのは――。
「矢吹だ」
「陽子です」
高揚した声で、森村は、矢吹に告げた。
「警部、警部の見立て通りでしたわ。あのハンマーから近藤結花さんの血痕が見つかったんですから!」
「そうか!! やったな。ありがとう、森村」
そう礼を陳べた矢吹は、さっそく、東葛西警察署で待機している宇喜多主任に連絡を入れた。
「宇喜多、科捜研からいま連絡が入った。橋本が手にしていたあのハンマーから、近藤結花の血痕が見つかったってな」
「ほ、ほんとうですか、警部」
「ああ、ほんとうだ。宇喜多、だから山縣管理官に逮捕状請求の書類を大至急作成してもらよう手配してくれ。出来上がったら、一目散に、それを持って裁判所に向かうんだ。頼んだぞ、宇喜多」
「りょ、了解です」
間髪を入れず、宇喜多がうなずく。すると彼は、さらにつづけた。
「それにしても、あの虫も殺さないような顔をした橋本が犯人とは思いもよりませんでしたよ」
「そういえば、宇喜多はかねて、聞き込みのために、橋本に会っていたんだっけ」
「ええ、そうなんですよ。少なくとも、そのときの印象では、彼が人を殺めるような男には到底見えなかったんですけどね」
「そうか。しかし、まあ、あれだ。わたしという一種の現象は、わたし自身にとっても不可解なものらしいからな」
「なるほどね……いまは、自分というものがわからない時代のようですからね」
「ああ、本質が定まっていないいまの時代は、だれもが、『思いがけない自分』と出会う可能性を持ってるんだ」
「なんだか、ややこしい時代に、われわれは生きてるようですね。それでも、まあ、これで、や、やっと……」
震えていた。宇喜多の唇からこぼれ落ちる、そのことばが。
彼はおそらく、不条理のうちに殺害された近藤結花の無念に、とりわけ心を痛めていたのであろう。
それほど、優しい男だったのだ、宇喜多という刑事は――。
「そうだ、やっと、近藤結花の無念を晴らすことができるんだ。これで彼女も、ようやっと成仏できるだろうよ」
「ほ、ほんに……ほんに、よかった」
鼻をすすりながら、宇喜多がつぶやく。
鬼の目にも泪であろうか。幾分、矢吹の目も赤くなっていた。
そうこうしているうちに、逮捕状請求の書類が出来上がった。
それを受け取った宇喜多は、一目散に、裁判所へと向かった。
そして彼は、裁判所から発行された逮捕状を手に捜査本部に戻ると、橋本を乗せた護送車が到着するのをいまかいまかと待ちわびるのだった。
そのころ、護送車のなかで、矢吹が話す電話の内容を聞いていた橋本が、蚊の鳴くような声でポツリとつぶやいた。
「けれど、それにしたって、どうして、わたしってバレちゃったんだろう……」
つづく