第30話

文字数 2,009文字


 ブルブル、ブルブル――卒然として、矢吹の背広の内ポケが震え出した。そこに突っ込んである携帯電話に、一件の着信が入ったからだ。
「ちょっとすまん」
 陽子にそう告げて、「はい、矢吹ですが」としかつめらしい口調で、彼は電話に出た。だが、いかんせん、周りの喧騒がうるさすぎていけない。それが邪魔をして、相手の声がよく聞き取れないのだ。
「すいません、ちょっと周りがうるさすぎて、よく聞こえないんですよ。こちらから折り返しかけ直しますので、しばらくお待ちください」
 そう矢吹は断りを入れて、いったん、電話を切った。
 それから矢吹は、チラッと陽子に目をやって、「わるい、そういうわけだから、ちょっと席を外すよ」と告げて、ガニ股で人混みをのっしのっしとかき分けながら、テラス席から、いったん、外へと出ていった。
 
 やけに長い間、矢吹は帰ってこなかった。
 何か込み入った話のようね……。
 眉間に深い皺を刻んで、陽子は内心そうつぶやきを洩らした。
 それでも、やっとのことで矢吹は顔を見せると、またもや、例のガニ股でのっしのっしと人混みをかき分けながら、元の席に戻ってきた。
 よく見ると、やや憮然とした表情を矢吹は浮かべていた。
 あら、怒ってるのかしら?
 ふと、そう思った陽子だったが、だからといって、「どうしたの? 何かよくない電話?」とは、執拗に訊かない。
 それより、彼女は黙って、涼しげな眼差しで小首をかしげ、彼の次のことばをけなげに待っている。
 第一、如才ない女性だった、陽子は――。
 もっとも、それも大きな要因だったが、それより何より、彼女は、矢吹の性分をよく理解し、把握していた。だから、余計なことは言わない。
 そんななか、ふと陽子は、あることに気づいて自分にこう私語(ささ)やいた。
 いえ、ちがうわ。警部は怒ってるんじゃない。ほら、だって、瞳の奥で輝いているのは陰性の光じゃなくてよ。あれは、そう、事件のクライマックスで彼がいつも見せる、あの陽性の光だわ。
 そう気づいた陽子は、胸のうちに熱いものが込み上げてくるのを感じた。
 一方、矢吹は、その表情のまま椅子に腰を下ろすと、さっそくワイングラスを手に取り、並々と注いであったキャンティをグッとひと息に飲み干した。
 それから、ふう、と深く息をつくと、そのワイングラスを、やおらテーブルに戻した。
 その上で、彼はぼそっとつぶやいた。
 
「電話の主は、安河内先生だ」
 え!
 驚いたように、陽子が目を瞠る。
 思いがけなかった。矢吹の唇からこぼれ落ちた人物のその、名前が……。
「じゃ、広島から……」
「ああ、そうだ……オレ、明日の朝一番の飛行機で、広島に飛ぼうと思う」
 絞り出すように、矢吹は低い声で言った。 
「そう、いよいよ、事件が動き出したのね」
 そうつぶやいたすぐあとに、陽子は、うん⁈ と首をかしげた。
 なんだか腑に落ちないわね、そう彼女は思ったからだ。
 てっきり恵風涼の男が犯人だと、安河内蓮はきめつけていた。が、その実彼は、彼女の弟で、近藤結花を殺害した犯人ではなかった。
 彼女は、だからすっかりしょげて、故郷である広島に、すごすごと帰っていったのではなかったのか――そう訝って、陽子は首をかしげるのだった。
「ところがだな……」
 矢吹が、鷹揚に口を開く。
「先生の物語にはまだ、つづきがあったんだよ」
 まるで陽子の心の様子を見てきたかのように、矢吹は言った。
 ちょっと驚いた陽子だったが、「それって、どんなつづき?」と思わず訊いてしまう。
「うん、先生が言うにはだな、どうも、先生と恵風涼が知っている人物がこのたびの犯人らしい、ってことだ」
 え! と陽子は息を吞んで、目を剝いた。
 二人が知ってる人物が犯人⁈   
 しかも、その犯人がいま、広島にいるっていうの?
 思わぬこの展開に、陽子は一瞬開いた口が塞がらなかった。
 それでも、やがて、ハッとわれに返ると、急に、居ても立っても居られない心持ちになった。 
「もしそれが事実なら、おちおちしてられないわ……」
 陽子はそう言うと、にわかに居住まいを正して、こうつづけるのだった。
「だとすれば、警部、今夜はこれでお開きにしましょうよ」
 間髪を入れず、矢吹は「ああ……」と、相槌を打った。
「そのほうが、よさそうだな」
 一段と低い声でそうつぶやくと、矢吹はもう、スクッと席を立って、伝票ホルダーを手にしていた――。
 ここから帰途に着くとき、二人は、地下道を歩いて東京駅に向うのが常だった。
 けれど、なぜか、二人は今夜、地上に出て、行幸通りをぶらぶら歩いて東京駅に向かっていた。
 しばらく歩いていると、ふいに矢吹が立ち止まった。そして彼は、ひょいと、天空を仰いだ。
 都会の薄紫色の夜空に、赤くて真ん丸いお月様が、不気味に、ぽっかり浮かんでいた。
「危険な目に遭わなきゃいいがな……先生」
 その月をねめつけながら、心配そうに、矢吹はつぶやいた。
 
 
つづく
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