第29話
文字数 2,506文字
さすが警部だわ。頼もしいわね――闘志がみなぎった矢吹の鋭い眼光に一瞥をくれた陽子は、内心そうつぶやきを洩らすと、ふっと口元をゆるめた。
これまでにも出口の見えない難事件を前にして、矢吹は、すっかり途方に暮れてしまうことが、あるにはあった。
それでも矢吹は、その都度、すんでのところで犯人を逮捕して、なんとか警察の威信失墜を免れてきた。
どうやら、彼には不条理の傍らを黙って通り過ぎるということに意識下の反発があるらしかった。矢吹は、だから不条理な事件の解明には心血を注ぐのだった。それほど、正義感の強さでは人後に落ちない矢吹であった。
とはいえ、彼も生身の人間に変わりない。完全なる存在であるカミサマとちがって、不完全な存在であることに――。
したがって彼も、時々、弱音の一つや二つ吐いてしまうことがなくはなかった。しかしそれは、文字通り「時々」で、ふだんは、なるべく弱音を吐かないように心がけていた。
ただ、こんかいの事件のように、「恵風涼の男が、真犯人にちがいない」と確固たる見込みがあって、それでいざ逮捕しようとしたら、実はまったくの見込みちがいだった、というようなことがあると、さすがの矢吹でもしゅんとしょげて「こんかいばかりは、お手上げだぜ」と、つい弱音を吐いてしまうことがあったのだ。
かといって、矢吹はそのすぐあとに「まだまだだなぁ、オレは」と、そんな自分に自嘲交じりの舌を打ち、こう言い聞かせるのが常だった。
「オレたち刑事は、市民が安心して暮らせるように、何を措いてもさしあたり社会の秩序を守る使命があるんだ。それなのに、オレたちがその使命をゆるがせにすれば、無理が通れば道理がひっこむような、そんな不条理な世の中になっちまう。それじゃ、市民があまりにもかわいそうすぎるじゃないか。それに、刑事が弱音を吐くことは恥じるべき敗北でもあるんだ。だから、オレたちは弱音なんか吐いてる暇はないんだ」
「残念ではあるが、本日をもって、本事件の捜査本部を解散とする」
ともすれば、酸鼻を極めた事件が、こうして、お蔵入りしてしまうことがある。刑事にとって、これほどの屈辱はないだろう。
当然、矢吹も歯噛みするほど口惜しいから、「社会の秩序を守るためには、どうしてもあきらめるわけにはいかないんだ。すべからく罪には罰を与えるべきだからな。そのためには、断固としてホシをあげねばならない」と自分を鼓舞して、独り、捜査をつづけるのだった。
「矢吹警部。残念だが、捜査本部は解散する。なので、キミは別の事件に当たってくれ」
仮に、矢吹にそういう指令が下りたとする。そういうとき彼は「……かしこまりました」と、いちおう、素直に命令に従う。がしかしそれは、あくまでも面従腹背であって、陰では、未解決事件になってしまった捜査と新たな事件との両方を解決しようとする。
時に、それが上司にばれて、咎められることがあった。それでもし、出世が遅れるようなことがあったとしても、矢吹はいっこうに意に解さない。もとより、無欲恬淡であったのだ、矢吹という男は――。
ことほどさように、市民を思う気持ちがあきらめぬ力になったからこそ、矢吹は、だれよりも多く犯人逮捕を成し遂げていたのだった。
きっと、こんかいも警部がホシをあげてくれるにちがいないわ――改めて、そう確信する陽子だった。
すると陽子は、ふと矢吹から目を離して、天空を見上げた。
おだやかな秋色の風が、空を駆けていた。
早いものね、と陽子はしみじみ思う。
こんかいの事件が発生したのは今年、二月の中旬、余寒の候。それから、すでに半年以上が過ぎようとしていた。
なんとしてでも、被害者の無念をはらさなくちゃいけないわね。
心のなかで陽子は自分にそう私語きかける。
それから彼女は、眼差しをテーブルの上に移した。ワイングラスのなかに、美味なキャンティが注がれている。彼女はそれで喉を潤してから、改めて、テラス席をざっと見回した。
それにしても、すごい賑わいね。
陽子は思わず目を瞠る。
テラス席は、洋の東西を問わぬあまたの客で、立錐の余地もないほどに埋まっている。それもあって、辺りには、様々な言語が飛び交っていた。中国語に韓国語、くわえて、英語にフランス語、なかには陽子が知らない言語も混ざっていた。
彼らのほとんどことごとくが屈託のない笑みを浮かべて、美味しい料理に舌鼓を打ちながら、楽しそうに酒を酌み交わしている。
やっと、当たり前の日常が戻ってきたようね。
視線の先にある景色に目を細めながら、陽子は、心のなかでそうつぶやいた。
もはや、都内のどの店も、かつての、いや、それ以上の活気を取り戻している。
このビルのほど近くにある東京駅も、その例外ではない。コンコースにあるお土産売り場などは、大きなキャリーバックを手にした国内外の観光客で、連日、ごった返しているほどであった――。
人類はこんかいのようなパンデミックを、100年前にも味わっていた。そのときも、あまたの命が、不条理のうちに奪われてしまった。
しかしながら、人類はいとも簡単に、そのときのおののきを忘れ去り、いつの間にか、過去のものとして記憶の外へと追いやった。
だからといって、その記憶は消しゴムで消すようには、消し去れない。いくら消し去ろうとしても、どうしたって、パンデミックの元凶までは消し去れないのだ。
案の定、人類はまたしてもパンデミックに見舞われた。新たなウイルスが、世界中を混沌の渦に巻き込んだのだ。
それでも、たぶん人々は、いずれその記憶も忘れ去るのだろう。こうして、当たり前の日常を取り戻してしまうと、何事もなかったかのように綺麗さっぱり――。
すると、人々はまた、いつものように、美味しい料理に舌鼓を打ちながら、楽しそうに酒を酌み交わし、何の屈託もなく、当たり前の日常を謳歌するのだろう。
こうしてみると、あれね――辺りに目をやりながら、陽子は思う。
どうやら、さしもの完全なる存在を誇るカミサマも、こと人間造りに関してはちょっと誤謬を犯しちゃったようね、と苦笑交じりに。
つづく
これまでにも出口の見えない難事件を前にして、矢吹は、すっかり途方に暮れてしまうことが、あるにはあった。
それでも矢吹は、その都度、すんでのところで犯人を逮捕して、なんとか警察の威信失墜を免れてきた。
どうやら、彼には不条理の傍らを黙って通り過ぎるということに意識下の反発があるらしかった。矢吹は、だから不条理な事件の解明には心血を注ぐのだった。それほど、正義感の強さでは人後に落ちない矢吹であった。
とはいえ、彼も生身の人間に変わりない。完全なる存在であるカミサマとちがって、不完全な存在であることに――。
したがって彼も、時々、弱音の一つや二つ吐いてしまうことがなくはなかった。しかしそれは、文字通り「時々」で、ふだんは、なるべく弱音を吐かないように心がけていた。
ただ、こんかいの事件のように、「恵風涼の男が、真犯人にちがいない」と確固たる見込みがあって、それでいざ逮捕しようとしたら、実はまったくの見込みちがいだった、というようなことがあると、さすがの矢吹でもしゅんとしょげて「こんかいばかりは、お手上げだぜ」と、つい弱音を吐いてしまうことがあったのだ。
かといって、矢吹はそのすぐあとに「まだまだだなぁ、オレは」と、そんな自分に自嘲交じりの舌を打ち、こう言い聞かせるのが常だった。
「オレたち刑事は、市民が安心して暮らせるように、何を措いてもさしあたり社会の秩序を守る使命があるんだ。それなのに、オレたちがその使命をゆるがせにすれば、無理が通れば道理がひっこむような、そんな不条理な世の中になっちまう。それじゃ、市民があまりにもかわいそうすぎるじゃないか。それに、刑事が弱音を吐くことは恥じるべき敗北でもあるんだ。だから、オレたちは弱音なんか吐いてる暇はないんだ」
「残念ではあるが、本日をもって、本事件の捜査本部を解散とする」
ともすれば、酸鼻を極めた事件が、こうして、お蔵入りしてしまうことがある。刑事にとって、これほどの屈辱はないだろう。
当然、矢吹も歯噛みするほど口惜しいから、「社会の秩序を守るためには、どうしてもあきらめるわけにはいかないんだ。すべからく罪には罰を与えるべきだからな。そのためには、断固としてホシをあげねばならない」と自分を鼓舞して、独り、捜査をつづけるのだった。
「矢吹警部。残念だが、捜査本部は解散する。なので、キミは別の事件に当たってくれ」
仮に、矢吹にそういう指令が下りたとする。そういうとき彼は「……かしこまりました」と、いちおう、素直に命令に従う。がしかしそれは、あくまでも面従腹背であって、陰では、未解決事件になってしまった捜査と新たな事件との両方を解決しようとする。
時に、それが上司にばれて、咎められることがあった。それでもし、出世が遅れるようなことがあったとしても、矢吹はいっこうに意に解さない。もとより、無欲恬淡であったのだ、矢吹という男は――。
ことほどさように、市民を思う気持ちがあきらめぬ力になったからこそ、矢吹は、だれよりも多く犯人逮捕を成し遂げていたのだった。
きっと、こんかいも警部がホシをあげてくれるにちがいないわ――改めて、そう確信する陽子だった。
すると陽子は、ふと矢吹から目を離して、天空を見上げた。
おだやかな秋色の風が、空を駆けていた。
早いものね、と陽子はしみじみ思う。
こんかいの事件が発生したのは今年、二月の中旬、余寒の候。それから、すでに半年以上が過ぎようとしていた。
なんとしてでも、被害者の無念をはらさなくちゃいけないわね。
心のなかで陽子は自分にそう私語きかける。
それから彼女は、眼差しをテーブルの上に移した。ワイングラスのなかに、美味なキャンティが注がれている。彼女はそれで喉を潤してから、改めて、テラス席をざっと見回した。
それにしても、すごい賑わいね。
陽子は思わず目を瞠る。
テラス席は、洋の東西を問わぬあまたの客で、立錐の余地もないほどに埋まっている。それもあって、辺りには、様々な言語が飛び交っていた。中国語に韓国語、くわえて、英語にフランス語、なかには陽子が知らない言語も混ざっていた。
彼らのほとんどことごとくが屈託のない笑みを浮かべて、美味しい料理に舌鼓を打ちながら、楽しそうに酒を酌み交わしている。
やっと、当たり前の日常が戻ってきたようね。
視線の先にある景色に目を細めながら、陽子は、心のなかでそうつぶやいた。
もはや、都内のどの店も、かつての、いや、それ以上の活気を取り戻している。
このビルのほど近くにある東京駅も、その例外ではない。コンコースにあるお土産売り場などは、大きなキャリーバックを手にした国内外の観光客で、連日、ごった返しているほどであった――。
人類はこんかいのようなパンデミックを、100年前にも味わっていた。そのときも、あまたの命が、不条理のうちに奪われてしまった。
しかしながら、人類はいとも簡単に、そのときのおののきを忘れ去り、いつの間にか、過去のものとして記憶の外へと追いやった。
だからといって、その記憶は消しゴムで消すようには、消し去れない。いくら消し去ろうとしても、どうしたって、パンデミックの元凶までは消し去れないのだ。
案の定、人類はまたしてもパンデミックに見舞われた。新たなウイルスが、世界中を混沌の渦に巻き込んだのだ。
それでも、たぶん人々は、いずれその記憶も忘れ去るのだろう。こうして、当たり前の日常を取り戻してしまうと、何事もなかったかのように綺麗さっぱり――。
すると、人々はまた、いつものように、美味しい料理に舌鼓を打ちながら、楽しそうに酒を酌み交わし、何の屈託もなく、当たり前の日常を謳歌するのだろう。
こうしてみると、あれね――辺りに目をやりながら、陽子は思う。
どうやら、さしもの完全なる存在を誇るカミサマも、こと人間造りに関してはちょっと誤謬を犯しちゃったようね、と苦笑交じりに。
つづく