第5話

文字数 937文字

「死因は?」
 いかつい眉をひそめて、矢吹警部が低い声で訊いた。
「これを見て」
 そう返したのは、科捜研の森村陽子だ。片方の指でこめかみをかきながら陽子は、遺体の首筋を指した。
「索条痕だな」
「……ええ」
「首をしめたあとで、顔面をつぶしたってことか」
「たぶん……」
「身元がわかるものは」
「なにもないわ」
「にしても、ひでぇことしやがるな」
「……まったくだわ」 
 沈痛な面持ちでうなずいた陽子は、それっきりしゅんと肩をすぼめて、口をつぐんでしまった。
「うんざりするよな、まったく。きょうもまた、ひとつ心がけずられちまったぜ……」
 陽子の気持ちを代弁するかのようにつぶやいた矢吹だったが、けれど、自分で自分の言葉に照れたらしく「なーんてな」とそっぽを向いて煙草をふかした。紫煙は、そよ吹く風に乗りながら揺られて、やがて、朝靄に溶けていく。
 映画やドラマなどで、刑事が煙草ふかす場面が消えて久しい。
 時代の変化によってマナーは変わるものだ――それがわからない、矢吹ではない。ただ、頭ではわかっていても、こうして、酸鼻をきわめる事件に直面すると、どうしても、言いようのない怒りが込み上げてくる。
 不謹慎と知りつつも、そうした感情をねじふせようとすると、つい煙草に手がのびてしまう。矢吹はいまだ、こうした現場で、いや、こうした現場だからこそ、あえて積極的に煙草をふかしていた。
 そうした矢吹の胸中を察してか、陽子はいままで、矢吹が現場で煙草を吹かすのをたしなめたことはない。
 でもきょうは、ちがった。「矢吹警部、ダメ!」と陽子は、突然、叫んでいた。「煙草は、やめて」――と。
 いままで、なかったことだ、こんなことは。それだけに、矢吹は、どこか腑に落ちないという表情で、陽子の人好きのする顔立ちを見た。
「これを見て」
 矢吹の視線をいなして、陽子は、遺体の腕先に眼差しを投げた。矢吹もつられるように、陽子の眼差しの方に視線を転じた。 
 うん⁈ 手に何かが握られているぞ。どれどれ、ライターだな。これは、ジッポだ。なるほど、そういうことか――腑に落ちた矢吹は、ガイシャの指をそっとほどいて、ライターを取り上げると、「ダイイングメッセージだったらいいけどな」と微笑んで、それを、陽子に手渡した。


つづく
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